糸満市摩文仁の平和の礎に新たに62人が刻銘された。その中には、真喜屋實孝(じっこう)さん(83)=沖縄市=の6歳下の弟で、終戦直後の混乱期に亡くなった忠さんの名前もある。
昭和の初めに両親が移民として渡ったフィリピン・ミンダナオ島で、家族は麻栽培で生計を立てていた。学校から帰るとすぐに仕事の手伝いをしていた長男の真喜屋さんは、4人兄弟の末っ子だった忠さんと「あまり遊んであげられなかった」と振り返る。それでも、家から6キロほど離れた学校へ通う道のりを、毎日一緒に歩いた。
米軍がフィリピン奪還のため再上陸してきた1944年末、家族の暮らしは一変した。60代の父は徴兵され、そのまま帰って来なかった。密林に逃げた家族は食糧が尽きたところを米軍に捕まり、そのまま収容所に入れられた。緊張の糸が切れたのか、母はそこで亡くなった。
約半年間の収容所生活の後、引き揚げ先の福岡で忠さんは息を引き取った。まだ10歳を超えたばかりだった。戦時中から続く栄養失調と、フィリピンでは体験したことのない寒さが命を縮めた。「周囲でもバタバタと人が死んでいく中、弟の死も『うちにも来たか』と淡々と受け止めた」
「平和の礎」に両親は刻銘されていたが、忠さんの名前はどこにもなかった。多忙で申請できずに時間が過ぎた。80歳を超え、「私が刻銘しなければ、弟の存在が忘れられてしまう」と決意し、2012年に死亡理由を書いた申請書を県に提出した。
「静かに追悼したい」。真喜屋さんは慰霊の日ではなく、30日に兄弟や子どもと礎に刻まれた弟に会いに行く。「長く待たせたな」と伝えるつもりだ。(大嶺雅俊)