米軍機がごう音をとどろかせながら自宅上空をかすめる。嘉手納基地の滑走路延長線上にある沖縄市登川に住む仲宗根操さん(72)は爆音を聞くたびに、幼少時に体験した沖縄戦の恐怖の記憶がよみがえる。過去のことと割り切ろうとしても基地の存在がそれを許さない。癒えることのない深い心の傷(トラウマ)を抱えながら、時だけが経過し、68年を迎えた。
「戦争を思い出したくない」との思いで静かな空を求めているが、その一方で戦争の記憶を「風化させてはならない」と強く願う。仲宗根さんは戦争からつながったままの空を見上げながら「慰霊の日」を前に、真の平和に思いをはせた。
ステルス戦闘機F22ラプターの配備延長が発表されたばかりの嘉手納基地。沖縄市登川のうるささ指数(W値)は受忍限度を超える80を計測した。
米軍が沖縄本島に上陸した時、仲宗根さんは4歳だった。親族20人ほどと一緒に山道を歩いて北に避難した。夜には照明弾が上がり、周囲を照らした。標的を探していた米軍が爆撃を始める。爆音と銃撃音の響く中、母に言われた通りに両耳を親指でふさぎ、残りの指で目を覆い、体を震わせながらやり過ごした。親族の中には弾に当たって命を落とす者もいた。幼心に体験した戦争の記憶は心の底に重く沈殿して残った。
大阪で教員生活を送った35年間、ごう音を聞くことはなかった。2000年に沖縄に戻り、米軍機が旋回する音を聞いた。不条理を感じ、嘉手納爆音第3次訴訟の原告団に加わった。
肌がビリビリするほどの米軍機の音を聞くと、照明弾の後に襲ってきた爆撃音の恐怖がよみがえる。「爆弾を落とすぞ。お宅を狙っているよ」と言われているようで、身を縮ませ耳をふさぐ。「基地がなければ、戦争を思い出すことはないのに」とつぶやく。
機会をみては小学校などで自身の戦争体験を語っている。「自分と同じ体験をしてほしくない。戦争の怖さを知ってほしい」と願うからだ。心の傷を抱えながらも、これからも子どもたちに語り続けていくつもりだ。(大嶺雅俊)