沖縄戦は、生き残った家族に一生分の苦しみを残し、遺骨すら奪い去った。糸満市摩文仁周辺を23日に訪れた遺族らは、魂魄(こんぱく)の塔で祈り、平和の礎に刻まれた名前を指でなぞった。
当時子どもだった70代の戦争体験者が子や孫と参拝する姿が目立ち、“戦世(いくさゆ)ぬ(戦争の)記憶”を伝える世代交代の時が、近づいている。「いくさー、ならんどー(戦争はいけない)」。政府が憲法改正を進める国で、軍民混在となった唯一の地上戦により20万人以上もの命が奪われた島は、戦後68年の決意を新たにした。
沖縄戦で家族全員を失い、孤児になった照屋しげ子さん(78)=南城市=が23日、娘や孫らと共に糸満市摩文仁の平和の礎を訪れた。刻銘された家族の名前を指でたどりながら面影を追い、戦前の暮らしを思い起こした。当時10歳で、1人生き延びたしげ子さんは、捕虜収容所で飢えに苦しんだ。海岸や山を歩き回り、海草や木の実を食べて空腹をしのいだ。故郷の大里村(現南城市)に帰った後は、親戚の家に身を寄せ生きてきた。
戦死したのは、父親の取盛(しゅせい)さん=当時30代=と、母親のミネさん=当時20代=のほか、祖母のカマさん(59)と弟の取栄(しゅえい)ちゃん(2)の4人。取盛さんは1944年の十・十空襲の後、防衛隊として召集され、戦死した。米軍上陸後、しげ子さんら家族は糸満方面に逃げる途中に米軍の攻撃に遭い、妊娠中のミネさんが即死した。取栄ちゃんは頭に破片が突き刺さった。摩文仁周辺で米軍の捕虜になり、最初に宜野湾村野嵩(現宜野湾市)の収容所に送られた。
憔悴(しょうすい)しきったカマさんは「あんたたちを残して、どうして死ねるね」としげ子さん、取栄ちゃんの手を握りしめたまま、息を引き取った。取栄ちゃんは頭の傷が悪化し「お母さん。お母さん」と呼びながら亡くなった。「戦争で家族も財産も全てを失った。言葉で表せないほどの苦しさがあった」。行き場のない悲しみ、悔しさを抱えてきた。
結婚して3人の子どもを授かった。5人の孫に囲まれ穏やかな毎日を過ごしている。
だが時折、悪夢にうなされる。祖母に抱きついて泣く自分や、何者かに追われる夢も見る。戦場の記憶は一生消えない。
礎の前で「父たちの名前を見ると涙が止まらなくて」と目頭を押さえるしげ子さん。23日は、3人の孫らと花を手向け、祈りをささげた。
孫たちの成長が心の支えになっている。しげ子さんの娘たちは「我慢強くて弱音を吐かない」と尊敬し「おばあちゃんが生き延びたおかげで、みんながいるんだよ。命はつながっている」と子どもたちに語り掛けた。(高江洲洋子)