平和希求の生涯 中村文子さん死去


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 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長を長年務めた中村文子さんの訃報を受け、自宅で27日夜に営まれた仮通夜には、同会関係者らが弔問に訪れた。

沖縄の平和運動の“母”として戦争のない社会を渇望し、平等を求めて女性の権利向上にも努めた生涯。関係者は中村さんの死を悼み、築いた成果と教えを次代に継承することを誓った。
 1フィート運動の提唱者でもある沖縄国際平和研究所理事長の大田昌秀さん(元県知事)は「教え子を戦場に送ったという後悔の念を絶えず持っていて、戦時中の責任を取るという思いで1フィート運動に全力を傾けてくれた。沖縄の平和運動にとって欠かすことのできない大切な人物だった」と振り返った。「中村さんがともした火を受け継いでいくことが、長い間運動を守り育ててくれたことに感謝を示すことだ。願わくば若い人たちが後に続いてほしい」と語った。
 1フィート運動の会の事務局長に中村さんを推すなど親交のあった沖国大名誉教授の石原昌家さんは「長年、1フィート運動と共に歩まれていた先生の訃報は、まるで3月に解散した会を追うかのように旅立たれたように聞こえた。90歳を過ぎても平和活動の最前線に立たれていた姿は、将来の世代を鼓舞し続けていた」としのんだ。
 元副代表で1フィートの会30周年記念誌「未来への道標」の編集委員長を務めた石川元平さん(元沖教組委員長)は、沖縄の日本復帰で、自治法の一部改正に伴って慰霊の日が廃止されようとした事態を振り返りながら、「中村事務局長が先頭となり平和・市民団体を動かし、市民、県民の支持を得て慰霊の日の存続を勝ち取ることができた。私たちは遺志を継ぎ、『平和を希求する心と、戦争に反対する行動力』を沖縄の未来を担う子どもたちに伝えていきたい」と語った。
 自身の戦争体験を30年以上語り続ける安里要江さんは、中村さんが副会長を務めた当時に県婦人連合会で共に活動した思い出に触れ「社会にどのような貢献ができるか語り合った。中村先生の導きがあって、語り部を続けられている」と、感謝の気持ちを語った。
 県婦人連合会の平良菊会長は「細い体で柔らかな物腰にもかかわらず、強い意志を持って平和運動に取り組んでいた人だった」と語る。「平和運動だけでなく、タクシー料金値上げなど生活に直結する問題にも、(当時の)宮里悦会長と共に精力的に取り組んだ。その姿勢を今も引き継いでいる」と、同連合会副会長時に残した功績をたたえた。

◆「優しさと強さの人」 涙ぐむ弔問客ら
 27日に死去した中村文子さんの自宅には同日夜、弔問客が相次いだ。中村さんが眠る部屋の床の間には、長年掛けられているという、戦争放棄をうたった憲法9条の掛け軸がそのまま飾られ、平和を強く願い続けた故人の生きざまを印象付けた。
 家族によると、中村さんは先月14日に体の変調を訴え、那覇市の病院に入院。今月に入り体調が悪化し、十二指腸に穿孔が認められ、八重瀬町の病院で手術を受けた。一時「大丈夫だよ」と返答もできていたが、27日になり容体が急変した。
 死去の知らせを受け、自宅に駆け付けた1フィート運動の会元理事の宮城孝子さん(50)=豊見城市=は「カジマヤー(数え97歳の祝い)のときに花束を渡したら、頬ずりされ、耳元で『私は長生きするから、みんな頑張りなさい』と言われた。まだまだ元気でおられると思った」と涙ぐんだ。「平和運動一筋というと固い印象があるが、普段は川柳が好きでちゃめっ気もあった。優しくて、その裏に強さがあった」と語った。
 中村さんと25年以上の付き合いがある同会元理事の真栄里泰山さん(68)=那覇市=は「中村さんは、基地のない沖縄にしないと死ねないと言っていた。遺志を継ぎ、頑張らないといけない」と語った。