「村上春樹を読む」新宿駅とは何か


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中央線の2つの路線
 村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、全体で19章の長編ですが、その最終章は巨大な新宿駅の描写で始まっています。
 「新宿駅は巨大な駅だ。一日に延べ三百五十万人に近い数の人々がこの駅を通過していく。ギネスブックはJR新宿駅を『世界で最も乗降客の多い駅』と公式に認定している」

 こんな文章で書き出され、新宿駅のことが十数ページにもわたり記されているのです。この物語の主人公・多崎つくるは鉄道の駅を作り、それを管理するのが職業で、新宿に本社を置く鉄道会社に14年も勤務しています。彼は子供の頃から駅舎を見るのが大好きで、今の職業を天職だと思っている人物です。
 だからJRの新宿駅を眺めによく行くのですが「だいたいいつも9・10番線のプラットフォームに上がる。そこには中央線の特急列車が発着している」と書いてあります。
 そして、午後9時ちょうどの最終・松本行きの特急列車の発車を見届けた後、多崎つくるは帰宅して、亡くなった友人の女性シロや、いま付き合っている沙羅のことを思うのです。それらのことが9ページほど記されたところでこの物語は終わっています。
 そのエンディングの文章も「意識の最後尾の明かりが、遠ざかっていく最終の特急列車のように、徐々にスピードを増しながら小さくなり、夜の奥に吸い込まれて消えた。あとには白樺の木立を抜ける風の音だけが残った」というものですので、いかにこの作品にとって、新宿駅でのことが大きな比重を占めているかが分かるかと思います。
 ではさて、どういう形で「新宿駅」のことが、この新作小説の中で、物語や登場人物たちと結びついているのでしょうか。また他の村上春樹作品と、どんな関係にあるのでしょうか。この問題を今回のコラム「村上春樹を読む」では考えてみたいと思います。
 新宿駅と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の関係を考える前に、新宿と村上作品、また中央線と村上作品というものをザッと紹介して、そこからこの新作と新宿駅の関係について迫ってみたいと思います。
 私が村上作品を読んできた経験からすると、この「新宿駅」また「新宿」という土地は村上春樹の長編で最も多く登場する場所ではないかと思います。正確に何回と数えたわけではありませんので、私が読んできた感覚での話ですが、でも「新宿」がほんとうに多いなあと感じるのです。
 手始めに、今回の新作のすぐ前の長編である『1Q84』(2009年、10年)を例に、その「新宿ぶり」を紹介してみましょう。
 『1Q84』BOOK1、2は女主人公・青豆と男主人公・天吾の話が、交互に展開していく話です。昨年、このコラムの前半を単行本化した『空想読解 なるほど、村上春樹』の中でも紹介しましたが、天吾のほうの話では、天吾と編集者の小松が新宿駅近くの喫茶店で打ち合わせをしている場面から始まっています。
 その次に天吾が登場するのは、ふかえりという美少女作家と初めて会う場面ですが、その天吾とふかえりの待ち合わせ場所も新宿の中村屋です。
 また青豆のほうの話では、同作のハイライトとも言える、カルト農業集団「さきがけ」のリーダーを青豆が殺害した直後に、彼女は新宿駅に向かっています。それは新宿駅のコインロッカーに預けておいたバッグをコインロッカーから出し、さらに逃走を助けてくれるタマルに電話をかけて、指示を受けるためです。そして青豆は新宿駅からタクシーで、高円寺南口の隠れ家まで逃走しているのです。
 これは少し余談ぎみですが、リーダー殺害後、青豆がなぜ新宿駅のコインロッカーでバッグを引き出すかというと、これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)の「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうの話で、「私」が「(一角獣の)頭骨」と「シャッフル済みのデータ」という2つの重要なものを新宿駅の荷物一時預り所に預ける場面があり、「私」が「やみくろ」などが棲む地底の世界から脱出してくると、新宿駅の荷物一時預かり所から、その2つの荷物を受けとることの引用だと思います。この時に「私」が受けとるのも青豆が引き出すものも、いずれもナイキのバッグなのです。
 もちろん『ノルウェイの森』(1987年)にも新宿のことが出ています。同作には生命力の象徴のような「緑」という女子学生が出てきますが、その「緑」と「僕」が「新宿」のジャズ喫茶「DUG」に行く場面が何度か出てきます。「緑」がトイレに行きたくなって、新宿駅の有料トイレにまで「僕」が彼女を連れていく場面もありました。
 これはやはり村上春樹が早稲田大学で学んだということも影響しているのかも知れません。『ノルウェイの森』の「僕」と「緑」は明らかに早大生でしょうし、今のことは知りませんが、1970年前後の「新宿」は早大生の街という感じがありました。
 そして村上春樹のエッセー集などを読んでいると、「新宿」のことが実にたくさん登場してくるのです。例えば『村上朝日堂』では西武新宿線の都立家政の駅から15分ほどの下宿に住んでいた時に、村上春樹は「新宿でオールナイトのアルバイトをして」いましたし、アイルバイトのあいまには、新宿・歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸っていたそうです。
 ジャズ喫茶の「ヴィレジ・ヴァンガード」に通っていたことも書かれていますが、そこには「たしか『連続射殺魔事件』の永山則夫くんも同じころやはり都立家政に住んでいて『ヴァンガード』でバイトをしていたと思う」とも記してあります。村上春樹と永山則夫は同年生まれですので、そのような関心もあったのでしょうか。もしも本当に「同じころ」だとすれば、知らないうちに2人は遭遇していた可能性もあったということですね。
 また同書に「僕が出会った有名人」という連続エッセーがあって、その「藤圭子さん」の巻では、1970年ごろ、村上春樹が新宿の小さなレコード屋でアルバイトをしていると、歌手である藤圭子さんが1人で店に立ち寄って「あの、売れてます?」とアルバイト店員の村上春樹に尋ねたという場面があります。これがなかなかいいエピソードです。
 藤圭子さんは今の若い人たちに分かりやすく言えば、宇多田ヒカルさんのお母さんですが、当時はスーパースター中のスーパースター。でもその時の藤圭子さんの表情は、とてもいい笑顔だったらしく、「この人は自分が有名人であることに一生なじむことができないんじゃないかなという印象を、その時僕は持った」と書いてあります。この感覚、いかにも村上春樹らしいなあと思います。
 さらに、お正月でも関西の実家に帰らず、大みそかの夜に新宿のオールナイト館をはしごして、映画を6本ぐらい見たことも書いてあるのですが、こういう話にも1960年代末から1970年代の初めの時代に、学生生活を送った感覚が生き生きと残っています。
 雑誌「アンアン」に連載された『村上ラヂオ』の「広い野原の下で」というエッセーでの村上春樹を私は好きなので、これもちょっと紹介しておきましょう。
 それはまだ「新宿西口」の向こうが原っぱだった時代のことです。かつて新宿駅西口にあった淀橋浄水場がなくなり、その跡地に高層ビル群が建設されていく直前の時でした。
 将来の開発のために新宿駅西口に抜ける地下道だけは既に整備されていたのですが、電車で帰れなくなると、村上春樹たちも地下道で電車の始発まで時間を潰していたようです。
 ある時そこで、カメラマン志望の友人が村上春樹のポートレートを撮影。それはモノクロの写真で、村上春樹も髪が長く、まだ19歳で、新宿西口のコンクリートの地面に腰をおろし、壁にもたれて煙草を吸っていました。アイロンのかかっていない半袖のシャツを着て、ブルージーンにスエードのデザートブーツ姿。ひどくふてくされた目をしていて、何がどうなってもかまうもんかという顔をしていたそうです。時刻は午前3時で、たぶん1968年の夏だったとか。
 友人がその写真を気に入って、大きく引き伸ばして、村上春樹にプレゼント。村上春樹自身は写真撮影が非常に嫌いですが、その写真だけは悪くないと思っていて、しばらくその写真を大事に持っていたそうです。でも引っ越しを重ねていくうちになくなってしまったようです。村上春樹の写真撮影嫌いは、私も最初の取材以来よく知っていますが、彼が気に入って、大事に持っていた写真ならちょっと見てみたかったですね。
 その写真を撮影した夜、近くにぽつんと居た男の子に村上春樹が声をかけると、彼は立川の高校の3年生で「恋人が妊娠しちゃって、その相手は僕じゃないんだ」という。それを村上春樹が慰めようと不器用に努力したそうです。こういう感覚も村上春樹ふうでなかなかいいです。
 さて、この新宿駅西口は『ねじまき鳥クロニクル』の中で重要な場所として登場してきます。「僕」が新宿駅西口の高層ビルの前の小さな広場の洒落たベンチに座ってダンキン・ドーナツを食べながら、目の前を通り過ぎる人たちをずっと見ている場面が同作の第2巻「予言する鳥編」の終盤に出てきますし、さらに第3部「鳥刺し男編」も、やはり「僕」が新宿駅西口のベンチに座って、人々を眺める場面から始まっていくのです。
 以上のように「新宿駅」「新宿」という場所は、村上春樹作品にとって、とても重要な場所なのです。
 そして昨年、「村上ラヂオ」の第3弾として刊行された『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』には「いわゆる新宿駅装置」というエッセーが入っていて、村上春樹の「新宿」への思いは一貫していると思いました。
 これは新宿駅の構内アナウンスを録音しておいて、しつこい電話セールスがかかってきたら、これを再生させて「お待たせしました。総武線津田沼行きがただいま13番線ホームに到着いたします。白線の内側までお下がりください」というようなアナウンスと効果音を流し、「すみません。今新宿駅で、すぐ電車に乗らなくちゃならないんです」と言って撃退して、電話を切る装置のことです。
 自宅にかけたつもりが、新宿駅の13番線ホームにかかっているので、相手は虚を衝かれ、びっくりして何も言えないという装置です。同エッセーによると、村上春樹はそれを思いついて、実際、使っていたというのですが…。確かに面白いアイデア、有効性も否定しませんが、うーん、でもほんとうなのかなあ、使っていたというのは…。
 でもともかく『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』の翌年に刊行されたのが『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ですので、あの巨大な新宿駅の描写については「いわゆる新宿駅装置」も少し意識されていたのかなと思いました。
 このエッセーには新宿駅の13番線とホームのことが記されていて、新作長編には「9・10番線のプラットフォームに上がる」ことが記されています。いずれも新宿駅のプラットフォームの番号までがわざわざ書き込んであるのです。
 さらに『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は自分以外の友人4人には、名前の中に色彩が含まれていているのに、自分だけ名前の中に、色がなくて、カラフルではないなと思っている多崎つくるの物語ですが、『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』の中には「カラフルな編集者たち」というタイトルのエッセーもあるのです。村上春樹はこれらのエッセーを書いている時に、次の長編のことを少しは考えてもいたのかなと思えてきたのです。でもきっと、これは私の妄想でしょう。
 さてさて、最初に紹介した、新宿駅というものが、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』と、どういう関係を持っているのかという問題ですね。
 冒頭で紹介した「新宿駅は巨大な駅だ…」というのが新作最終章の書き出しですが、それに続いて「いくつもの路線がその構内で交わっている。主要なものだけでも中央線・総武線・山手線・埼京線・湘南新宿ライン・成田エクスプレス。それらのレールはおそろしく複雑に交差し、組み合わされている。乗り場は全部で十六ある。それに加えて小田急線と京王線という二つの私鉄線と、三本の地下鉄線がそれぞれに脇腹にプラグを差し込むような恰好で接続している。まさに迷宮だ」という文章が記されています。
 その各線を紹介する冒頭に「中央線」を置いていることに、私は心ひかれました。なぜなら、この「中央線」もまた村上春樹の作品にしばしば登場するのです。
 例えば『ノルウェイの森』で「僕」が「直子」と偶然再会するのも「中央線」の電車の中でした。この「直子」は、生命力の象徴のような「緑」とは対照的な女性で、心を病み、最後は京都のサナトリウムの森の中で首を吊って死んでしまうという「死の世界」を象徴する女性です。
 「直子」は「僕」の亡くなった高校生時代の友人の恋人ですが、その「直子」も東京での学生時代は中央線沿線の国分寺に住んでいました。そして「僕」は「新宿」の小さなレコード店で週に3回の夜番だけのアルバイトをみつけて働いているのですが、クリスマスには直子の好きな「ディア・ハート」の入ったヘンリー・マンシーニのレコードをプレゼントしたことも記されているのです。やはり「新宿」と「中央線」というのは、村上春樹にとって永遠のテーマとなる場所なのでしょう。
 この「直子」が暮らしていたという国分寺で、村上春樹はジャズ喫茶を開いていました。年譜などをみると、大学をまだ卒業していない時期のようです。その時に住んでいた家も中央線沿線の国分寺駅近くでした。
 『村上朝日堂の逆襲』(1986年)のエッセー「交通スト」によれば「中央線の線路わきに住んでいたことがある。それもちょっとやそっとのわきではなくて、裏庭を電車が通っていると言ってもオーバーではないくらいのわきである。もちろんすごくうるさいし、従って家賃も安い」という家です。
 私も学生時代、国分寺・国立付近に住んでいて、中央線にはよく乗りましたので、たぶんあの辺りの家のことではないか…となんとなく想像がつくのですが、まあそれはともかく、この国分寺生活で、村上春樹は「中央線」に対する考察を深めていったのではないでしょうか。でも「裏庭を電車が通っている」状態では、うるさくて、考えるどころではなかったかもしれないですね。
 ともかく村上春樹作品は、新宿駅だけでなく、中央線沿線の駅もかなり出てきます。あまり例示が多いのもよくありませんが、例えば『スプートニクの恋人』(1999年)の「ぼく」が住んでいるのは国立のアパート。「ぼく」が好きなすみれは吉祥寺のアパートです。中盤で彼女は代々木上原に引っ越すのですが、その直後に「ぼく」は「新宿」に行って、紀伊國屋書店で何冊か本を買い、映画館で映画を見て、「中央線に乗って、買ったばかりの本を読みながら国立まで」帰るという場面がありますが、その場面から『スプートニクの恋人』は大きく物語が動き出すのです。
 さらに「ぼく」は小学校の教員ですが、僕の教え子である「にんじん」という少年が万引き事件を起こします。それが立川駅近くのスーパーマーケットなのです。この新宿―吉祥寺―国立―立川は中央線で一直線です。やはり「新宿」と「中央線」は、村上春樹にとって、永遠のテーマとなる場所なのでしょう。
 さてさて(ここまで読んでくださった方には誠に申し訳ないのですが)今まで記したことが、長い長い前置きなのです。これから『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の「世界で最も乗降客が多い駅」新宿駅の話の続きについて書きたいと思います。
 そこに「そんな極端に混雑した駅や列車が、狂信的な組織的テロリストたちの攻撃の的にされたら、致命的な事態がもたらされることに疑いの余地はない。その被害はすさまじいものになるだろう」という文章が記されていて、「そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」とあります。つまりこれはオウム真理教の信者たちによる地下鉄サリン事件のことですね。
 この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、主人公・多崎つくるが20歳になる少し前ぐらいに高校時代の親友4人から、理由も分からないままに絶交されてしまう話です。多崎つくるは、その絶交のショックで死の瀬戸際まで行くのですが、それから16年後に、その絶交の真相を知るために、かつての友人達を彼が訪ね歩く物語です。
 この16年間がちょうど、阪神大震災が起きた1995年から東日本大震災が起きるまでの時間と同じなので、2つの大震災によって、傷ついた人たちのことを思いながら書かれた小説だろうという意見もありましたし、私も同じように考えています。
 また「その悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」との言葉もあるように、地下鉄サリン事件から東日本大震災までも16年なのです。村上春樹の中で阪神大震災のこと、地下鉄サリン事件のこと、そして東日本大震災のことがとても大きなこととしてあるのだということがよくわかります。
 さらに、この新宿駅の9・10番線のプラットフォームで、中央線の午後9時発の最終の松本行きの特急列車の発車を見届ける場面では、単行本2ページほどの部分に「松本」という言葉が、9回も記されているので、私は松本サリン事件のことも思いました。
 前作『1Q84』に登場するカルト集団はオウム真理教を思わせる部分もありましたし、その教祖・麻原彰晃の本名は「松本智津夫」なので、「松本」にそのようなつながりもあるのだろうかとも考えました。
 でも、何か、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の最終章の、この新宿駅の場面を受けとめる読み方として、どこか不十分の感覚が自分の中に残っていました。
    ☆
 「現場百遍」。そんな言葉が警察官や記者たちの世界にはあります。分からなくなったら現場に行きなさい。繰り返し現場に行きなさい。現場には、何か手がかりやヒントがそこにあるという意味の言葉です。
 ある日の夜、多崎つくるのように、JR新宿駅の中央線の特急列車が発着する9・10番線に行ってみました。小説にあるように、午後9時ちょうど発の最終、松本行きの特急列車の発車を見に行ったのです。
 その日の9番線ホームから出発する最終松本行きの特急「あずさ」は、それほど混んでいるわけではありませんでしたが、でも座席の3、4割はうまっている感じで、がらがらでもありませんでした。
 特急「あづさ」の次の停車駅は立川、その次は八王子であることを、案内表示で見て、立川までなら乗ってみようかな…という気持ちも一瞬わきましたが、それはこらえて、定時に新宿駅を発車していく最終の松本行きの特急を見送りました。
 その特急列車の向こう側の8番線には、上りの快速の中央線の電車が何本か停車しては、東京駅方面に発車していきました。
 そんな現場を訪れて、迫ってきた文章があります。
 「八王子までは都市部を走るので、騒音を抑えなくてはならないし、そのあともおおむね山中を進み、カーブが多いこともあって、派手なスピードは出せない。距離のわりに時間がかかる」
 村上春樹は、この新宿発、松本行きの特急「あずさ」について、そのように記しています。この特急「あずさ」には、もしかしたら、多崎つくるの人生と重なるものがあるのではないでしょうか。
 『1Q84』に、天吾が中央線新宿駅の立川方面行きプラットフォームで、ふかえりと待ち合わせて、中央線に乗る場面があります。2人は立川駅で青梅線に乗り換えて、二俣尾という駅まで行くのです。
 その時、天吾は中央線について、次のように考えています。
 「中央線はまるで地図に定規で一本の線を引いたように、どこまでもまっすぐ延びている。いや、まるでとかようにとか断るまでもなく、当時の人々はきっと実際にそうやってこの路線をこしらえたのだろう。関東平野のこのあたりには語るに足る地勢的障害物がひとつもない。だから人が感知できるようなカーブも高低もなく、橋もなければトンネルもないという路線ができあがった。定規一本あれば事足りる。電車は目的地に向けて一直線にひた走っていくだけだ」
 天吾を通して、そう村上春樹は中央線のことを記しています。
 そんな中央線に乗って「天吾は風景が窓の外を流れていくのを眺め、レールの立てる単調な音に耳を澄ませて」いるのですが、すると「どのあたりだろう、知らないうちに天吾は眠っていた」のです。
 村上春樹の文学は、近代日本社会が「効率主義」に陥って、自分たちの生きるべき本当の価値や倫理を失ってしまった姿を一貫して批判した作品になっているのが特徴です。
 東日本大震災からまもない2011年6月、スペインのバルセロナで開かれたカタルーニャ国際賞の授賞式で村上春樹は「効率」を追求する日本近代社会の姿を強く批判しました。
 広島・長崎での原爆による被爆体験を持つ日本人にとって、東日本大震災にともなう福島の原発事故は2度目の大きな核の被害であることを語りました。われわれ日本人は核に対して、「ノー」を叫び続けるべきだったのに、核への拒否感、原発への拒否感がなくなってしまったことの理由について、それは「効率だ」と述べていました。
 村上春樹の作品の主人公たちは、みな、この「効率主義社会」と闘う人たちです。
 『1Q84』の天吾が考える「カーブも高低もなく、橋もなければトンネルもない」「目的地に向けて一直線にひた走っていくだけだ」という「中央線」の電車は「効率主義」の電車という意味でしょう。
 天吾はそんな「効率」を追求したものが苦手で、だから、「レールの立てる単調な音に耳を澄ませて」いるうちに「知らないうちに天吾は眠って」しまうのです。
 その天吾が目を覚ますのは、その中央線が青梅街道と交差する「荻窪駅」ですが、なぜ青梅街道と交差する「荻窪駅」付近で、目覚めるのかについては『空想読解 なるほど、村上春樹』の中で詳しく書きましたので、そちらを読むか、またはこのコラム「村上春樹を読む」のバックナンバーを読んでください。
 さて「中央線」は、そのように「カーブも高低もなく」「目的地に向けて一直線にひた走っていくだけ」の「効率主義」の電車なのですが、でも多崎つくるが見送った「中央線の特急列車」は〈まったく違う路線〉なのです。
 「八王子までは都市部を走るので、騒音を抑えなくてはならないし、そのあともおおむね山中を進み、カーブが多いこともあって、派手なスピードは出せない。距離のわりに時間がかかる」という路線です。
 これはむしろ「反効率」の路線と言っていいでしょう。『1Q84』で天吾の乗った都市部を走る「中央線」はカーブも高低もない一直線の路線で、特急が走って行く「中央線」はカーブが多く、スピードは出ず、時間がかかるのです。でも、それが、多崎つくるがいつも行く、新宿駅のプラットフォームから出る列車なのです。
 彼の人生は、効率が悪く、曲がりくねっていて、それほどスピードも出そうもありません。でも今、我々の歩むべき姿を表して、多崎つくるは在るという意味なのではないでしょうか。だから新作長編が「意識の最後尾の明かりが、遠ざかっていく最終の特急列車のように、徐々にスピードを増しながら小さくなり、夜の奥に吸い込まれて消えた。あとには白樺の木立を抜ける風の音だけが残った」という言葉で終わっているのでしょう。
 こうやって『1Q84』の主人公・天吾と、その次ぎの新作長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の主人公・多崎つくるは、「中央線」の2つの路線の上でつながっているのではないかと思います。「現場百遍」の成果は、そのようにやってきました。(共同通信編集委員・小山鉄郎)
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小山鉄郎のプロフィル
 こやま・てつろう 1949年、群馬県生まれ。共同通信社編集委員兼論説委員。「風の歌 村上春樹の物語世界」を2008年春から共同通信配信で全国の新聞社に1年間連載。2010年に『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)を刊行。現代文学を論じた『文学者追跡』(文藝春秋)もある。
 他に漢字学の第一人者・白川静氏の文字学をやさしく解説した『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』(共同通信社、文庫版は新潮文庫)、『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』(共同通信社)、『白川静さんと遊ぶ 漢字百熟語』(PHP新書)など。
(共同通信)

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午後9時の発車を待つ、中央線の最終・松本行き特急列車「あずさ」(右)と、東京行きの中央線電車(左)=JR新宿駅
小山 鉄郎