英宣教師ベッテルハイム、帰国後に軍法会議で除隊処分


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「米国に渡った後のベッテルハイムがどのような活動をしていたのか研究の余地がある」と語るジェンキンズ教授=13日、那覇市の県立芸術大学

 1846年から8年間、琉球王国に滞在し、ペリー艦隊と共に琉球を離れて米国に渡った英国宣教医師バーナード・ジャン・ベッテルハイム。渡米後、南北戦争(1861~65年)に軍医として従軍したことは知られてきたが、職務怠慢や上官への不敬行為を告発され、軍法会議で除隊処分となっていた事実が、米国で発表されていたことが分かった。

 ベッテルハイム日記などの翻刻・編集を手掛ける県立芸術大学のA・P・ジェンキンズ教授(歴史学)によると、南北戦争で軍法会議にかけられた軍医50人を検証した米医学博士の共著「Tarnished Scalpels(仮訳題・不祥事にまみれたメス)」(トーマス・P・ラウリー、ジャック・D・ウェルシュ著、2000年)の中に、1864年のベッテルハイムの軍法会議事例が収録されていた。
 北軍のイリノイ州第106連隊歩兵部隊に軍医(中佐)として入隊したベッテルハイムだったが、野戦病院に運ばれた1等兵を治療せずに放置し、死なせたという職務怠慢の疑いで告発を受けていた。だが軍法会議の審理では、現場に居合わせた関係者によって証言が異なるなど、職務怠慢を立証できずに無罪になったという。
 ただ、職務怠慢のほかにも、病院の荷馬車係の兵士に魚を釣ってくるよう私的な命令をしていたことや、食費を支払わずに患者用の食事を食べていた未払い行為が、軍紀違反として告発されていた。さらに連隊の上級将校を「酔っぱらい」と繰り返し批判していた不敬行為でも告発があった。これらは「紳士・将校にふさわしくない行為」として有罪となり、軍を除隊させられたという。
 軍法会議の記録からは、ベッテルハイムの攻撃的な性格が部隊内でさまざまな摩擦を生み、告発者との間に感情的な対立があったことも読み取れるという。琉球滞在時のベッテルハイムも、庶民へのキリスト教布教と医療活動に献身的な情熱を注いだ一方、王府の退去要請に従わず半ば強引に活動を続けるなど、高圧的な性格や奇行の持ち主としても知られた。
 ジェンキンズ教授は「琉球におけるベッテルハイムについては、照屋善彦琉大名誉教授の先駆的研究を中心に研究の裾野が広がってきたが、渡米後の活動はほとんど知られていなかった」と米国で確認された新事実に注目する。「琉球にいたころと変わらないベッテルハイムの気性が、米国でも問題を起こしていた。自分の意に沿わないことには目上の権威者にも食ってかかる、われわれがよく知るベッテルハイムの姿がある」と指摘した。
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 バーナード・ジャン・ベッテルハイム(1811~1870) 英国プロテスタント宣教師で医師。漢字名は伯徳令。1846~54年、那覇の護国寺に滞在しキリスト教の布教と医療活動を行い、数名の信者を得たとされる。聖書を沖縄の言葉に翻訳した「琉訳聖書」を残したほか、天然痘予防の種痘を那覇の医師仲地紀仁に伝授したとされるなど、西洋医学の導入者でもあった。
英文へ→British missionary Bettelheim court-martialed during American Civil War