【母として・異国で生きる県系人】絹江・バースナイトさん うるま市出身


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絹江・バースナイトさん(中央)と、娘のパトリシアさん(右)、息子のジョンさん

故郷の母の声を力に
 米バージニア州第2の都市ノーフォーク市は世界最大の海軍基地のある湾港都市だ。その街の日本レストランのオーナー、絹江・バースナイトさん(61)=旧姓・前新門、うるま市浜比嘉出身=の店「寿」を久しぶりに訪れた。

 店はリフォームされ明るく、清潔感あふれる落ち着いた雰囲気だ。「このかいわいには日本レストランが軒並み増え、しのぎを削っている」と絹江さん。14年間地道に経営に携わってきた。今は娘のパトリシアさん(38)が絹江さんの片腕として働いている。遠く離れて暮らす息子のジョンさん(36)とは週に1度、電話で話し良き相談相手になっているという。一女一男を自立させたが、それまでは苦労の日々だった。
 渡米3年後、絹江さんが35歳のとき、夫が心臓病で急死した。長女4歳、長男2歳だった。泣いて悲しんでいる間もなく生きるためにレストランで働き始めた。絹江さんは「子どもたちを人並み以上に育てるのには人の3、4倍も働かなければならなかった。生活に必死で子どもたちに教育などできなかった」と当時を思い出す。
 苦しいときは沖縄の母親に電話した。「早くから未亡人になった母は女手一つで5人の子どもを育てた。母親の声を聞くだけで元気になり、翌日は朝から晩まで仕事にまい進できた」と絹江さん。そしてコツコツとお金をため、自分の店を持つまでになった。
 パトリシアさんは、幼かったころから独立心旺盛で弟の面倒をよく見てくれた。短大卒業後、電話会社で10年間働くがリストラに遭い絹江さんの店を手伝うようになった。「困っている人がいたら手を差し伸べる心優しい娘に育ってくれた」と絹江さん。今は離婚し2人の子どもを育てるシングルマザーだ。
 ジョンさんはスポーツ万能で学業も優秀だったが、一時期いじめに遭った。絹江さんは「自分の力で解決するしかない」と叱咤激励(しったげきれい)し学校を休ませる事もなく乗り越えさせた。高校生のときは学校一の人気者としてキングに選ばれホームカミングのときにパレードし絹江さんを喜ばせた。大学卒業後はコンピューター関連の仕事に就いている。
 パトリシアさんは店のためにホームページを作成し、絹江さんが里帰りのときは安心して全てを任せられる存在だ。ジョンさんは「苦労してきたお母さんの面倒はいずれ僕がみる」と言ってくれる。孫たちとは頻繁に会って食事をするなど仲良しだ。
 絹江さんは、浜比嘉に住む102歳で健在の母親のカジマヤー祝いに息子を連れて行った。孫にも沖縄を見せるなど沖縄のルーツを確認させた。たくましく生きてきた絹江さんの後ろ姿を見てきた子どもたちと孫2人。絹江さん一家の家族の絆の強さが伝わってきた。(鈴木多美子通信員)