「村上春樹を読む」うつろな人間と猫


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T・S・エリオットをめぐって
 今夏、岩手県一関市にある有名なジャズ喫茶「ベイシー」に立ち寄りました。ジャズファンの間では、知らないものがないというジャズ喫茶の聖地です。ファンばかりか、演奏家たちもわざわざ新幹線に乗ってやってくるというほどの店。その「ベイシー」の店主・菅原正二さんに会う用事があるという人に付いていったのです。

 訪れてみると、これがほんとうに素敵な店でした。店主の菅原さんが、気さくでざっくばらんで、とても魅力的な人です。カウント・ベイシー本人から正式に許可を得たという店名。カウント・ベイシーは愛称をつけるのが好きで、菅原さんは「Swifty」というニックネームももらったという話から始まって、いろいろな日本のジャズシーンが次々に語られていくので、時がたつのも忘れてしまうほどでした。
 同店の巨大なJBLのスピーカーから、聞こえてくるジャズは目を閉じていると、再生ではなく、まるで自分のすぐ前で演奏されているかのよう。何しろJBLの経営陣たちが、その音を聴くために来店したこともあるそうです。色川武大(阿佐田哲也)さんが、1989年、一関市に引っ越した直後に急死していますが、ジャズ好きでレコードもたくさん持っていた色川武大さんの同市への引っ越しに、この「ベイシー」があるからという理由もあったことを聞いたこともあります。それもうなずけるような店でした。
 菅原さんの話に聴き入りながら、そういえば村上春樹も小説を書き始める前、また書き始めてからも初めのころはジャズ喫茶を経営していましたし、愛用のJBLスピーカーの魅力やカウント・ベイシーのことも何回か、エッセイにも、小説にも出てくるなあ…などと思っておりました。
 和田誠さんが描くジャスミュージシャンのイラストに村上春樹がエッセイを書いた『ポートレイト・イン・ジャズ』にも、もちろん「カウント・ベイシー」の回はありますし、『村上春樹 雑文集』(2011年)にもカウント・ベイシーのことが出てくるエッセイがあります。
 例えば「余白のある音楽は聴き飽きない」という文章には、高校時代にずぶすぶに音楽にのめり込んでいたことを書いて、「音楽好きな友達が回りにいても、そのころはビートルズ全盛の時代。ところが僕はビートルズもいちおう聴いていたけれど、シェーンベルクとかカウント・ベイシーでしょう、他の人とまず話が合わない」と書いています。さらに「言い出しかねて」では「一九三七年のビリー・ホリデイの歌唱と、バックのベイシー楽団の演奏がどれくらい素晴らしいか、どれくらい見事にひとつの世界のあり方を示しているか」という言葉も記されておりました。
 小説でも『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)で「風呂を出ると僕はカリフラワーを茹で、それを食べながらビールを飲み、アーサー・プライソックがカウント・ベイシー・オーケストラをバックに唄うレコードを聴いた。無反省にゴージャスなレコード。十六年前に買った。一九六七年。十六年間聴いている。飽きない」と記されていています。
 そしてもう一カ所、「夜には一人で本を読み、酒を飲んだ。毎日が同じような繰り返しだった。そうこうするうちにエリオットの詩とカウント・ベイシーの演奏で有名な四月がやってきた」という言葉もあります。
 カウント・ベイシーの演奏で有名なのは「エイプリル・イン・パリ」ですし、エリオットの詩で有名なのは『荒地』の書き出しの「四月は最も残酷な月」のことでしょう。
 さて、実は「そうこうするうちにエリオットの詩とカウント・ベイシーの演奏で有名な四月がやってきた」という村上春樹の文章のうちで「カウント・ベイシー」のほうではなく、「エリオットの詩で有名な」という言葉にちょっと引っかかってしまったのです。
 ジャズファン、カウント・ベイシー好き、さらにジャズ喫茶の聖地「ベイシー」と菅原店主を愛する人たちには、本当に申し訳ないのですが、今回は、そのエリオットと村上作品について、考えてみたいと思います。
 T・S・エリオットはノーベル文学賞を受けた著名な詩人です。このエリオットのことが、作中に大きな塊として出てくるのは『海辺のカフカ』(2002年)です。
 それは『海辺のカフカ』の中でもかなり印象深い場面。同作には登場人物たちが結集する四国・高松にある甲村記念図書館という私営の図書館が出てきます。その図書館に2人連れの女性が訪ねてきて、書架や閲覧カードなどをチェックしてまわる場面が第19章にあるのです。
 彼女たちは「女性としての立場から、日本全国の文化公共施設の設備、使いやすさ、アクセスの公平性などを実地調査」していると言うのですが、この2人とその図書館の大島さんという人が、ちょっと、いやかなり激しいやりとりをする章です。
 女性2人は女性的見地から見て、「この図書館には残念ながらいくつかの問題点が見受けられます」と言います。それはどのような問題点かと言うと、その図書館には「女性専用の洗面所がありません」「男女兼用の洗面所は様々な種類のハラスメントにつながります」と指摘、「これは明らかに女性利用者に対するニグレクトです」と言います。「ニグレクト」とは「意識的看過」ということのようです。
 これに対して大島さんは「ここはとても小さな図書館」であることを話して、「洗面所が男女になっていれば、そのほうが好ましいのは論をまたないところですが、今のところ利用者から苦情は出ていない」と伝えます。
 さらに男女別の洗面所の問題を追及したければ、シアトルのボーイング社に行かれて、ジャンボ・ジェットの洗面所について言及したらどうかと言います。「私どもの図書館よりはジャンボ・ジェットのほうが遙かに大きいし、遙かに混雑もしていますし、私の知るところでは機内の洗面所はすべて男女兼用です」と答えています。
 2人連れの女性は、今度は図書館の著者の分類が男女別になっていることを追及します。彼女たちは男女別の分類は否定しないが、「男性の著者が女性の著者より先に来て」いることを指摘して「私たちの考えるところによれば、これは男女平等という原則に反し、公平性を欠いた処置です」と主張するのです。
 これに対しても、大島さんは、相手の一人の名前を名刺で「曽我さん」であることを確認して、その女性に対して「学校で出欠をとられるときには、曽我さんは田中さんの前だし、関根さんのあとだったはずです。あなたはそのことに対して文句を言いましたか? たまには逆から呼んでくれと抗議しましたか?」などと反論するのです。さらに「僕らはこのささやかな図書室を少しでも地域の役に立つものにするべく、全力を尽くしています」「もちろん不備はあります。限界だってあります。しかし及ばずながら精一杯のことはやっているのです。僕らができないでいることを見るよりは、できていることのほうに目を向けてください。それがフェアネスというものではありませんか」とも言います。
 でも女性たちは「現実という便宜的タームを持ちだすことによって、安易な自己正当化をおこなっているだけです」と応えるのです。さらに「つまり、あなたは典型的な差別主体としての男性的男性だ」と加えます。
 「あなたがたは他者の痛みに鈍感になることによって、男性としての既得権益を確保しているのです。そしてそのような無自覚性が、女性に対して社会に対して、どれほど悪を及ぼしているのかを見ようとはしません。洗面所の問題や閲覧カードの問題はもちろん細部に過ぎません。しかし細部のないところに全体はありません。まず細部から始めなくては、この社会を覆っている無自覚性の衣を剥ぎとることはできません。それが私たちの行動原則です」と主張するのです。
 そこで、大島さんは意外な角度から2人に反撃を加えます。「いずれにせよ、あなたの言っていることは根本的にまちがっています」と言って、大島さんの秘密が読者の前に明かされるという場面にもなっています。
 つまり外見は男性に見える大島さんが「僕は男性じゃありません」と言い、その証拠に運転免許証を2人の女性連れに見せるのです。戸籍から言えば、紛れもなく女性、でも「意識は完全に男性です」と大島さんは言います。「レズビアンじゃない。性的嗜好でいえば、僕は男が好きです」とのことです。「さて僕は何を差別しているんだろう。どなたか教えてくれますか」と言うのです。
 それを聞いて沈黙してしまった女性2人に(やりとりを脇で聞いていた「僕」も息をのんで大島さんを見ています)「どのように書かれても、我々はたぶん気にしないと思います。私たちはこれまでどこからの補助も受けず、指図も受けず、自分たちの考えるやりかたでものごとを進めてきましたし、これからもそうするつもりでいます」と大島さんが言うと、彼女たちも立ち去っていくのです。
 そして、この後にT・S・エリオットのことが出てきます。この「差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う」と、大島さんは主人公である「僕」に語ります。
 でも「ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う〈うつろな人間たち〉だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。つまり早い話、さっきの二人組のような人間のことだよ」と大島さんは「僕」に言います。さらに加えて「僕が我慢できないのはそういううつろな連中なんだ。そういう人々を前にすると、僕は我慢できなくなってしまう。ついつい余計なことを口にしてしまう」と語っています。
 これは作中の単なるエピソードというわけではなく、『海辺のカフカ』という作品の第19章のほぼ全体を使ったやりとりです。大島さんが述べた言葉は村上作品の登場人物のものとしては“珍しく”と言ってもいいほど、かなりきっぱりとした内容ですし、おそらく村上春樹自身の思いでもあるのでしょう。
 私も似たような経験がありました(いや、まったく似ていないかもしれませんが…)。『海辺のカフカ』刊行から、ほぼ1年後のことですが、ある女性によるフェミニズムの視点からの講演を聴いておりましたら、ある男性の批評を取りあげて、男性の批評がいかに狭量か、一方的な価値観で作品を読んでいるのかということを1時間近く、かなり強い調子で批判的に話されたのです。
 その講演が終わって、参加者からの質問時間となった時、1人の女性が立ち上がって、講演で批判の対象となった文章を書いたのは男性ではなくて、男性の名前を使って書いている女性の研究者であることを指摘したのです。その世界ではかなり知られたことらしく、何人かの方が同じことを述べておりました。
 つまり講演者が1時間近く話した、男性の批評の狭量さや、一方的ということの前提が崩れてしまったのですが、でも講演者は、この取り違えを謝罪も訂正もしませんでした。
 この時も村上春樹が紹介した、T・S・エリオットの〈うつろな人間たち〉のことを思いました。そこで描かれているのが、フェミニズム関係のことであったということもあったかもしれません。でもフェミニズムについては、私はどちらかと言えば、女性たちの訴えに耳を傾けたいと考えている人間です。
 男女を間違ったゆえに(間違ってはいけないのですが)、私が〈うつろな人間たち〉のことを思ったのではありません。間違い、思い違いを訂正する機会が何回もあったにもかかわらず、その講演者はそれをせずに、間違いに口をぬぐってしまったからです。
 間違いを率直に認めることは、勇気のいることですし、難しいことですが、でもその講演者がもし思い直して、自分の間違いを認めたとすれば、私はきっと、その講演者に対して、心動いていくものを感じたと思います。
 いやいや、ちょっと余分なことを記しました。『海辺のカフカ』のT・S・エリオットの〈うつろな人間たち〉のことです。この『海辺のカフカ』と『ダンス・ダンス・ダンス』以外に、今の私は村上春樹が小説の中でT・S・エリオットのことについて直接記している場面を知りません。ただ、次のような読者と村上春樹の応答を通して、少し考えたことが(いや、いつもの妄想ですが)あるので、それを紹介したいと思います。
 『海辺のカフカ』の刊行直後、インターネットメールを介して読者の質問に村上春樹が答えるコーナーが開設されたのですが、その応答集『村上春樹編集長 少年カフカ』(2003年)には、この「うつろな人間たち」をめぐるいくつかの質問がありました。
 その中に「『うつろな学生』より質問です」というメールがあって、それがこのT・S・エリオットの引用について、コッポラ監督の『地獄の黙示録』にも同じ言葉が引用されていることを問うていたのです。つまりマーロン・ブランドが演じたカーツ大佐もエリオットの詩集を持っていて「うつろな人間たち」を読むのです。
 また『海辺のカフカ』では最後のほうに、星野青年がナカタさんの死体の口から出てくる白く細長い物体を殺す前に、黒猫のトロが「極端な偏見をもって断固抹殺するんだ」と言う場面がありますが、これも『地獄の黙示録』に出てくることを指摘して、それらの関係を問うていたのです。
 村上春樹は、この質問について、「こんにちは。そのとおりです」と、答を書き出していて、続けて「僕は『地獄の黙示録』の圧倒的なファンです。もう20回くらいは見たと思います」と記し、「圧倒的な偏見をもって断固抹殺する」というトロくんのセリフは『地獄の黙示録』の中の言葉の引用であることを、自ら述べています。
 さらに「僕の作品には往々にしてこういう『引用』があります。オマージュのようなものです。ちゃんと見つけてくれる人がいると嬉しいですね」と書いています。
 でも「ただし、T・S・エリオットの詩については、『地獄の黙示録』以前から知っていましたし、その部分は『地獄の黙示録』とは直接には関係ありません。そういえば、あの映画の中でも『うつろな人間』のことは引用されていましたね」と答えているのです。
 この最後に加えられた言葉が、前から気になっていました(今回、記しながらも、とても気になっています)。
 村上春樹が『地獄の黙示録』を大好きであることは有名です。単行本には未収録ですが、村上春樹が雑誌「海」に書いた《同時代としてのアメリカ》という連載があるのですが、その3回目(1981年11月号)で、この映画のことを論じています。
 それは“Terminate…with extreme prejudice”という英語の言葉で書き出されていて、続いてこれは「フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』の冒頭、ウィラード大尉がナ・トランの司令部で受けるカーツ大佐暗殺命令の文句です。『断ち切るのだ…極端な偏見をもってね』。奇妙な言葉である」と書いています。
 つまりその言葉を『海辺のカフカ』の中で引用して使ったということです。《同時代としてのアメリカ》には、『地獄の黙示録』について「僕は幾つかのシーンとダイアローグが気になってとうとう四回もこの映画を観てしまった」とあります。70ミリ版で3回、35ミリ版で1回だそうです。これだけでも相当なものですが、その後も15、6回は見たということですね。これはやはりすごいです。
 それだけ見たのに「そういえば、あの映画の中でも『うつろな人間』のことは引用されていましたね」という記述の仕方が、ちょっと引っかかって、気になっていたのです。
 この村上春樹の答えをその通りに読んでみれば、『地獄の黙示録』はとても好きな映画だが、でもエリオットの詩については、その映画以前からよく知っていて、自分の中に深く残っていたことなので、この『うつろな人間たち』という言葉を『地獄の黙示録』との関連から考えないでほしいということなのでしょう。
 『地獄の黙示録』は村上春樹『羊をめぐる冒険』(1982年)にも影響を与えたのではないかとも言われる映画です。よく知られたことですが、『地獄の黙示録』はアフリカを舞台にしたジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』を、その舞台をベトナム戦争時のベトナムに移して描いた作品です。
 そして『羊をめぐる冒険』の最後、友人の「鼠」を探して、北海道の果てまで旅をした「僕」が、鼠の父親の別荘にたどり着きます。その別荘の「奥の方の小部屋に」「本が一冊伏せてあった。コンラッドの小説だった」とあるのですが、このコンラッドの小説は、多くの人が『闇の奥』のことだろうと推測していますし、私もそのように考えています。
 しかも『地獄の黙示録』には『うつろな人間たち』ばかりでなく、エリオットの詩のことが何度か出てくるのです。その一番象徴的なものは、映画のラスト近くに、カーツ大佐の机の上にジェシー・L・ウェストン女史の『祭祀からロマンスへ』とフレーザーの『金枝篇』の2つの本があることだと思います。
 この場面は、よく注意して見ないと分かりませんので、確かに何回か見ないと、よく分からない映画とも言えます。でもこれはエリオットの詩『荒地』に関係した2冊です。
 エリオットの詩『荒地』には著者による自注がついていて、その冒頭にこの『祭祀からロマンスへ』を読むことが、自注を読むよりも、この詩をよく理解できることが記されています。また『金枝篇』からも恩恵をこうむっていることも記されています。そして村上春樹の『1Q84』(2009年、10年)には『金枝篇』のことが出てくるのです。
 さらに『荒地』のエリオット自注には、ワーグナーの『神々の黄昏』のことも記されているのですが、村上春樹『羊をめぐる冒険』にも終盤に「そうなればあの黒服の男は僕を彼のいわゆる「神々の黄昏」の中に確実にひきずりこんでいくだろう」という文章があるので、『羊をめぐる冒険』のこの部分は、もしかするとエリオット『荒地』自注と関係があるのかもしれません。
 さらにこんなこともあります。『地獄の黙示録』の音楽ではワーグナー『ワルキューレの騎行』が有名ですが、エンディング場面は当初の段階では「我々は現代の『神々の黄昏』の時代に、神兵となって戦うのだ。いまこそ、新しい黙示録が伝えられる」と、カーツ大佐が言って戦う場面の案もあったとのことです(立花隆著『解読「地獄の黙示録」』)。
 加えて、エリオットはコンラッドの『闇の奥』が好きで、『うつろな人間たち』のエピグラフに「クルツがさァ―はァ死んだよ」という『闇の奥』の中で象牙貿易により絶大な権力を握るクルツへの言葉が記されています。クルツは『地獄の黙示録』でのカーツ大佐に相当する人物です。
 このように村上春樹の作品と『地獄の黙示録』、コンラッドの『闇の奥』、エリオットの作品との関係は入り組んでいて、とても複雑です。
 でも村上春樹の『少年カフカ』を読むと、エリオットの詩は『地獄の黙示録』の前から知っていたし、ともかくこの『うつろな人間たち』は『地獄の黙示録』とは関係ないと明言しているのです。つまり、コッポラの『地獄の黙示録』が出てくる前からエリオットについて、村上春樹は関心を持っていて、この『海辺のカフカ』の〈うつろな人間たち〉は、その中にあるということです。むしろエリオットの詩が好きだから『地獄の黙示録』を20回も見たのかもしれません。
 『海辺のカフカ』の「僕」が寝泊まりする甲村記念図書館のゲストルームに一枚の絵がかかっています。海辺にいる12歳ぐらいの少年を描いた写実的な絵です。それは、この甲村記念図書館の女性責任者である佐伯さんが、愛した同年の少年で、彼は20歳のときに学生運動のセクト間の争いに巻き込まれて、意味もなく殺されてしまった少年です。そのことが19章の冒頭に記されていて、大島さんが〈うつろな人間たち〉について僕に語った後、その章の終わりに「結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む」と述べています。
 きっと村上春樹にとって〈うつろな人間たち〉に関する思いは、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』(日本での公開は1980年)が登場する以前、1960年代末からの自分の学生時代に体験、経験したことが反映したことなのでしょう。
 さて、T・S・エリオットの詩のことですが、他に村上春樹の小説の中に出てこないのでしょうか…。私には、もしかしたらエリオットの詩が反映しているのではないかと思われることがあるのです。
 以下、私の妄想を記してみたいと思います。妄想もちょっと超を冠する超妄想ですが。
 『海辺のカフカ』の最後、星野青年も音楽に感動するうちに猫と話せるようになります。その星野青年に「極端な偏見をもって断固抹殺するんだ」という『地獄の黙示録』から引用された言葉を話すのが、黒猫のトロです。でも『海辺のカフカ』の中では、もう一カ所、同じ言葉が引用されています。それはナカタさんが、猫殺しのジョニー・ウォーカーを殺す場面です。ジョニー・ウォーカー自身が「これ以上猫を殺されたくなければ、君が私を殺すしかない。立ち上がり、偏見を持って、断固殺すんだ」と言うのです。
 そのナカタさんは猫と話せる「猫探しの名人」です。15歳の「僕」をめぐる話とナカタさん・星野青年の2人をめぐる話が交互に展開していく『海辺のカフカ』のうち、ナカタさん・星野青年のコンビのほうの話は、猫と話す物語、猫をめぐる物語なのです。
 これは、もしかしたらエリオットの詩で、ミュージカル『キャッツ』の原作となった『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』と関係がある展開なのではないでしょうか…?
 それは「エリオットの猫交遊録」ともいえる楽しい詩集ですが、詩集の終わり近くにある「猫に話しかける法」という詩では「猫に話しかけるには、どうしたらいいだろう?」とあって、「猫に関して、ルールはひとつ。『向こうから話しかけてくるまで、猫に口をきいてはいけない』」とあります。
 でもポッサムおじさん(エリオット)は「とはいえ、わし自身は、このルールあんまり信じてないけどね―」と記して、「わしは帽子を取り、頭をさげて、猫にこんな風に話しかける。」「ああ猫君!」と話しかけるのです。
 『海辺のカフカ』の終わり近く、星野青年は「よう、猫くん。今日はいい天気だな」と話かけると、「そうだね、ホシノちゃん」と猫が返事をしてきて、星野青年は猫と話せるようになっているのです。この話。ちょっと似てないですか。
 そして、エリオットの『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』の最初の詩は「猫に名前をつけること」というものです。『海辺のカフカ』のナカタさんの話が、実際に動き出していくのは、第6章からですが、それは猫と話せるナカタさんが、出会った猫に次々と命名していく行為を通して展開していきます。
 つまり第6章では「それでは猫さんのことを、オオツカさんと呼んでよろしいでしょうか?」。第10章では「それで、このナカタが、あなたのことを、カワムラさんと呼んでも、よろしいのでありますね」。第14章では「失礼ですが、あなたのお名前は?」「オオカワさんでいかがでしょう。そう呼んでかまいませんでしょうか」という具合です。
 私はここに、猫に名前をつけていく、エリオット『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』と対応する展開を感じるのです。
 猫探しの名人であるナカタさんを、猫殺しのジョニー・ウォーカーのところまで案内するのは「犬」ですが、このことも『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』の中に「犬は犬、猫は猫」という鉄則が記されていますので、そのことと関係があるのかしれません。
 ともかく、私は『海辺のカフカ』という作品の「僕」をめぐる話の側には〈うつろな人間たち〉というエリオットの詩が出てきて、それと対応するようにナカタさん・星野青年コンビの側にはエリオットの詩集『キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法』が対応して、展開しているのではないかと思えてならないのです。やはり妄想でしようか…。
 村上春樹の『羊をめぐる冒険』『1Q84』などの作品で、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』やコンラッドの『闇の奥』とのことが論じられたりしますが、T・S・エリオットの詩作品などと村上春樹の小説との関係について、考えてみる価値もあるのではないかと、私は思っています。
 ちなみに『キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法』の冒頭の「猫に名前をつけること」という詩は「猫に名前をつけるのは、全くもって難しい」と書き出されています。
 それによると「猫にはどうしても、三つの名前が必要なんだ」として、まずは家族が毎日使う名、「たとえば、ピーター、オーガスタス、アロンゾ…」と、いくつかの猫の名前の候補が挙げてあります。
 その最初に挙げてある「ピーター」、つまり「ピーターキャット」は村上春樹が経営していたジャズ喫茶の名前でした。それは『キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法』から得た命名でしょうか…? もしそうだとすれば、その当時、まだ学生時代から、エリオットを読んでいたということになるのですが。
 なお『キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法』は池田雅之訳に従いました。また『地獄の黙示録』とエリオットの詩との関係でついては、立花隆著『解読「地獄の黙示録」』に教えられるところが多かったです。そのことを記しておきたいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)
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小山鉄郎のプロフィル
 こやま・てつろう 1949年、群馬県生まれ。共同通信社編集委員兼論説委員。「風の歌 村上春樹の物語世界」を2008年春から共同通信配信で全国の新聞社に1年間連載。2010年に『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)を刊行。現代文学を論じた『文学者追跡』(文藝春秋)もある。
 他に漢字学の第一人者・白川静氏の文字学をやさしく解説した『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』(共同通信社、文庫版は新潮文庫)、『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』(共同通信社)、『白川静さんと遊ぶ 漢字百熟語』(PHP新書)など。
(共同通信)

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