【キラリ大地で】アメリカ 百合子・ノードクリストさん(宜野湾市出身)


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百合子・ノードクリストさん(左)

不動産業で頭角現す
 ラスベガス県人会の初代会長を務めた百合子・ノードクリストさん(65)=宜野湾市出身=は、県人会が存在しなかったころから、ラスベガス近郊に住む県系人らを自宅に集め、新年会などを開き、親睦を図っていた。百合子さんが県へ会の登録手続きを行い、2010年にラスベガス県人会が発足した。

 ことし、県人会は4年目を迎えた。会活動は活発に行われ、メンバーたちの心のよりどころになり、夫を亡くした県人たちの生きがいにもなっている。百合子さんも会の活動に積極的に協力している。
 約40年前、百合子さんは北谷にあったアメリカのスポーツ用品を扱う会社で秘書として働いていた。そこで夫となるチャックさんと出会った。チャックさんは、来沖前はベトナム戦争の前線で陸軍として従軍していた。除隊後、軍属だった沖縄勤務の父親の元に来たチャックさんは、百合子さんの会社に営業マンとして入社したのだった。
 1971年、2人は結婚し、チャックさんは保険会社に転職し、グアムの支店へ転勤となった。グアムでは巨大な台風の被害に遭い、1カ月間、電気のない生活を余儀なくされたこともあった。
 3年後、カリフォルニア州に引っ越した百合子さんは、不動産の資格を得るため勉強を始めた。「不動産売却の際、不動産業者に10%も取られるのが嫌だと思ったのがきっかけ。軽い気持ちで資格取得を目標に学校に通ったが、専門用語が多く、一つ一つ辞書を引いたり大変だった」と百合子さん。見事、1回で合格した。
 当時の米国は、バブル経済のさなか。カリフォルニアの各地から、多くの日系1世で農業に携わる人たちがサンディエゴに土地を求めて訪れ、顧客になった。その後、米国ではバブルがはじける。後に引っ越したパームスプリングスでは、日本人の顧客を確保できた。日本はバブル経済の前期。東京、大阪などから個人経営の社長らが土地、家屋、別荘を求めて来た。その地では、不動産の資格を持つ日本人は百合子さんしかいなかった。日本語での応対と真面目な仕事ぶりが評価され重宝がられた。百合子さんは、地元のテレビで日本語のコマーシャルを流し、大々的に宣伝した。ビジネスは絶好調を迎えた。
 不動産の仕事をしながら2人の息子の子育てと家事をこなした百合子さん。「仕事と子育ての両立は大変だったが、近くにいた夫の両親が協力してくれた」と話す。長男マイクさん(41)は、保険会社でアドバイザーとして活躍し、2人の息子がいる。次男パトリックさん(28)はコンピューター関連の仕事をしている。
 32年間不動産業界の第一線で働いてきた百合子さんは一昨年退職した。週末になると息子家族とオフロードと砂漠でのキャンプ、ゴルフを楽しみ、稽古事は琉球舞踊と三線に励んでいる。(鈴木多美子通信員)