【母として・異国で生きる県系人】幸子・ベラスコさん 浦添市出身


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幸子・ベラスコさん(中央)

 幸子・べラスコさん(80)=旧姓・当山、浦添市出身=は、戦争で両親を失った。姉の家に身を寄せ、昼間は軍のオフィサークラブでキャッシャーとして働いていた。

 17歳の時、エンジニアのスーパーバイザーをしていたアルさんと出会った。親しくなったころ、学校に行かない理由を聞かれた。幸子さんは「両親がいないので働かなければならない」と答えると、アルさんから「自分が学費を出すので学校に行くように」と熱心に諭され、彼の援助で夜間学校に通うことになった。
 2人はいつしか結婚を意識するように。しかし、姉や親戚に話すと真っ向から反対された。最終的には「この敷地に家を建てるなら結婚を認める」ということに。アルさんは諦めなかった。銀行から金を借りて瓦ぶきの家を建てた。瓦ぶきの家は集落では初めてだった。そして晴れて結婚。夫の転勤でカリフォルニア、ハワイ、グアムで暮らした。3人の子供に恵まれ、幸子さんはグアムの免税店でスーパーバイザーとして働いた。
 仕事、家事を両立させながら、子供たちには日本式の礼儀作法をしつけ、目上の人を尊敬する沖縄の心を忘れないように育てた。家庭では幸子さんは日本語を話した。今でも子供たちとは日本語で会話する。
 長女のバーバラさんと長男ジェリーさんは共にハワイ大学を卒業した。次男のダニーさんは軍隊への志願を幸子さんに内緒にしていた。寂しい思いをさせたくない思いやりだった。出発前に軍隊に行くことを告げられるが、もう止められない状況を察知し、テキサスに送り出した。
 1年後に休暇で帰った息子は1カ月の間、家族と家で過ごした。順風満帆に過ごしてきた一家に突然の悲劇が起きた。赴任地に戻ったダニーさんは2週間後、オートバイ事故で即死。帰らぬ人となった。悲しみに暮れた幸子さんは、1カ月間立ち直れず家に引きこもっていた。職場の同僚が支える中、悲しみを忘れるよう仕事に専念した。
 息子が眠っているグアムに暮らして28年がたった。定年退職したアルさんと幸子さんは、老後、ラスベガスに住んでいる娘一家の近くに引っ越すことを決心し、14年前にラスベガス市民となった。
 平穏な日々が流れるが、2003年、アルさんが肺がんになった。つらい闘病生活が1年半続き、幸子さんは看病に明け暮れた。アルさんは「恵まれた幸福な人生だった。お金を残すことをしないで余生を楽しむように」と言葉を残して逝った。
 娘バーバラさんは政府関係の仕事をし、一人息子がいる。息子のジェリーさんはハワイ在でJTBのマネジャーとして、VIPツアーの担当をしている。日本人の妻との間に一男一女がいる。幸子さんには、ひ孫もできた。年に1度、息子一家のいるハワイに行くこと、娘との会食そして趣味のカラオケに琉球舞踊、三線、裁縫、編み物などを楽しむ悠々自適の日々を送っている。(鈴木多美子通信員)