「留魂壕」を保存、18年公開へ 首里城正殿裏


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 那覇市首里当蔵町の首里城公園内にある沖縄戦当時に掘られた「留魂壕(りゅうこんごう)」を、公園を管理する国営沖縄記念公園事務所が保存する方針を固めていることが2日までに分かった。

「留魂壕」は沖縄戦当時、沖縄師範学校男子部の学生らが掘った壕で、米軍が上陸する直前の1945年3月ごろまでに完成した。米軍上陸後は、鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)として動員された沖縄師範学校生らの壕として利用されたほか、壕の一部では当時の新聞「沖縄新報」の発行が行われていた。
 「留魂壕」は首里城正殿の裏手にあり、一般の人は立ち入りできない未公開区域になっている。
 管理している公園事務所は2018年の全面開園に合わせて、隣接する琉球王朝時代の遺構とともに、沖縄戦当時を伝える遺跡の一つとして壕を一般公開する予定。
 公園事務所首里出張所の知念弘出張所長は「落盤などの危険性があるため、立ち入りはできないが、外から見られるようにしたい」と話している。
 県立埋蔵文化財センターは、公園事務所から委託を受け、2012~13年度に首里城復元整備に伴う調査の一環で「留魂壕」を含む一帯を調査した。
 調査前は3カ所ある壕の入り口のうち、西側の上部が辛うじて分かる程度で、他の2カ所も土などで埋もれている状態だったという。
 県立埋蔵文化財センターの新垣力(つとむ)主任は「西側の入り口を掘り進めたら空洞が出てきた。広さは1千平方メートルほどある。証言記録とは異なり、中にはいくつも部屋があり、より複雑だった」と話している。(知花亜美)

<用語>留魂壕
 現在の県立芸大の場所に戦前あった沖縄師範学校男子部の生徒らが沖縄戦直前に構築した。入り口は3カ所あり、高さは約1・8メートル、幅2メートル、奥行きは約30メートル、内部の坑道の総延長は100メートル近くある。一部は、沖縄新報が新聞発行のため利用していた。
英文へ→Shelter built by students for the Japanese Imperial Army during the Battle of Okinawa to be exhibited

右端のベニヤ板が立て掛けられている所と左端の暗くぽっかり空いた部分が壕の入り口。中央下の石積み部分が琉球王朝時代の遺構が残る場所=那覇市首里当蔵町、首里城公園内