最年少被爆者、沖縄で奮闘 故・沖本さん、平和の礎に追加刻銘


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「平和の礎」に追加された沖本(矢ヶ崎)八重美さんの刻銘

 放射能の内部被ばくに詳しい琉球大学名誉教授の矢ヶ崎克馬さん(70)=西原町=の妻、沖本八重美さんは、広島の原爆で被災した“最年少の被爆者”だった。胎内被爆者として認定される最後の日に生まれ、翌日ならば「被爆2世」になっていた。2011年3月の原発事故後、福島や関東地方から県内に避難してきた被災者の生活支援に精力的に取り組んでいた。

昨年1月、心臓発作で急逝。享年66歳だった。八重美さんの名前はことし6月、原爆被爆者として糸満市摩文仁の「平和の礎」に刻銘された。

■広島から沖縄へ

 八重美さんは胎児の時に母親が広島市内で被爆した。広島で胎内被爆者と認められるのは1946年5月31日生まれまで。八重美さんはこの日に生まれた。
 69年、矢ヶ崎さんが広島大学の大学院生だった時、駆け出しの新聞記者として学生運動を取材に来た八重美さんと出会った。「おかしい時には体を揺らして腹の底から笑う、それまで会ったことない快活な女性だった」。すぐに引かれ合い、71年に結婚した。
 翌72年、沖縄が本土に復帰する。復帰運動の報道に接した矢ヶ崎さんは「人々の奮闘に感激し、沖縄に憧れていた」という。74年に琉球大学に着任した。八重美さんとは以前から「広島か長崎か、あるいは沖縄か、戦争の犠牲を強いられた場所で力を尽くせればいいね」と語り合っていた。

■内部被ばく研究

 矢ヶ崎さんの専門は「物性物理」で、内部被ばくではなかった。後に内部被ばくの研究を始めるが、きっかけは八重美さんが被爆者だったからではない。97年に久米島から北へ約30キロの鳥島射爆場で米軍の劣化ウラン弾の大量誤射が明らかになり、「県民として黙っていられない」と思ったからだ。劣化ウラン弾による各地の被害を調査・研究し、内部被ばくの危険性の告発を繰り返すようになった。
 2003年、04年には、全国の裁判所で提訴された原爆症認定集団訴訟で証言に立った。被ばく線量の推定に使われていた基準が、根本的矛盾を抱えていることを突いた。八重美さんは「すごく良い仕事をするようになったね」と喜んだ。

■原発事故後

 八重美さんは沖縄で市民の生活相談などに奔走し、多忙な日々を過ごしていた。被爆者としての活動はあまりなかったが、原発事故後には積極的に発言、行動するようになる。
 テレビ局に被爆体験をつづった手紙を送り、沖縄へ避難してきた被災者たちをつなぐ活動に取り組んだ。原発事故を契機に矢ヶ崎さんは11年3月から同年末まで、講演などのために120回、本土に通ったが、八重美さんは空港まで送迎して活動を支えた。
 12年12月、矢ヶ崎さんは古希のお祝いで、八重美さんから手書きのカードをもらった。「内部被ばくの危険性の告発、どこまでも!」と書かれていた。
 八重美さんが心臓発作で亡くなったのはその約1カ月後だ。「とても元気だったのに。普段からもっと健康を気遣ってあげればよかった」と後悔が残る。矢ヶ崎さんは今、もらったカードに八重美さんの写真を貼り、肌身離さず持ち歩いている。(安田衛)

※注:矢ヶ崎克馬さんの「崎」は、「大」が「立」の下の横棒なし