対馬丸撃沈から70年。これまで船体の内部構造は生存者の断片的な記憶から想像するしかなかったが、今回沈没時の乗組員、小関保一等運転士の名が入った詳細なメモによって全体像が明らかになった。手書きの船の断面図を見た生存者たちは「これまでこのような図面は見たことがない」と話しながら「自分がいたのはこの辺り」と指で示した、70年前の記憶をたぐり寄せながら船内の様子を証言した。
当時垣花国民学校4年生だった上原清さん(80)=うるま市=は「左舷側に(甲板から)降りる階段があり、そこを降りると2段ベッドがあった。私がいたのはこの辺り」とメモの3番船倉を指さした。
上原さんは船室は広い体育館のようで、前方には大きな倉庫があり、救命胴衣が入っていたのを覚えている。「全員分の救命胴衣があると聞いた。1番船倉が倉庫だったのではないか」と証言した。メモには3番船倉の下層に上海で積まれた乾燥したマユが置かれていると記載されている。上原さんは「私は見てないが、マユがあったという証言がある」と話した。
那覇国民学校高等科の引率教師として乗船していた糸数裕子(みつこ)さん(89)=那覇市=は沈没当時、盲腸や船酔いで苦しんでいる子どもたちを医務室で看病していた。「おそらくこの辺りだと思う」と図面のアッパーデッキとサロンデッキの周辺を指さした。医務室には体調の悪い子どもたち約20人のほか、軍医や船舶兵もいたという。
救命いかだについては「竹ざおでできていて、竹と竹の間の隙間に指を入れてしがみついていた。この絵のようないかだではなかった」とメモとは別のいかだがあったことを話した。
一般疎開者として対馬丸の後方に乗船していた那覇市の税理士、屋比久嘉光(よしみつ)さん(83)は兄といとこを失った。メモを見た嘉光さんは「初めて見た。兄と私が入った場所には2段ベッドがなかったので、7番の船倉ではないかと思う」と証言した。(知花亜美、玉城江梨子、安田衛)