対馬丸、救命艇4隻のみ きょう撃沈70年


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沈没した対馬丸の内部構造。船倉のつくり、2段ベッドの設置箇所などが記されている(県立図書館「大城立裕文庫」所蔵)

 アジア・太平洋戦争中の1944年8月22日、疎開学童や一般疎開者1788人を乗せた「対馬丸」が、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してから22日で70年を迎えた。21日、対馬丸の内部構造や救命いかだなどの装備を詳細に記した手書きのメモが新たに見つかった。

これによると対馬丸には約50人が乗れる救命ボートを4隻しか積んでいなかった。他に約2メートル四方の木枠でつくられたいかだ(底なし)が約20個、約1メートル50センチ四方の木製板の補助いかだが約40個積まれていた。米軍の潜水艦が行き交う危険な海域に十分な救命装備がないまま出航していたことが裏付けられた。
 メモは沈没時の乗組員、小関保一等運転士が直接書いたか、同氏の証言に基づき筆記されたとみられる。対馬丸記念館(那覇市)の外間邦子常務理事は「これまで見たことがない非常に貴重な資料。今までは対馬丸の内部構造が分かるものがなかった。事件を継承する上でも大変重要」としている。内部構造の資料は、対馬丸を所有していた日本郵船にも残されていない。 「対馬丸」の著書がある芥川賞作家、大城立裕さん(88)=那覇市=が県立図書館に寄贈した資料の中にあるのを本紙記者が発見した。大城さんは「1970年代か80年代以降に私の元に寄せられた資料だと思う」と話した。
 対馬丸は船倉が七つあり、前方に学童疎開者、後方に一般疎開者が乗っていたことが分かっている。今回見つかったメモによると、一つの船倉に300人ほどが入り、船首側から数えて2、3、6番船倉に2段ベッド、1、7番船倉に1段ベッドが置かれていた。
 2段ベッドは「ベッドというよりも広い棚」と描写され「(船倉の)中に入りきれずにハッチの上にも寝る子供たちも多かった。約400人ほど」と記述されている。
 また1、5番船倉は中甲板で上下3層に、2、3、6、7番船倉は上下2層に仕切られていた。
 メモは原稿用紙に手書きされたものがB4サイズ6枚に複写されていた。
(安田衛、知花亜美)

<おことわり>
 1944年8月21日に疎開学童や一般疎開の人たちを乗せ、那覇港を出港した「対馬丸」は翌22日午後10時12分、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、11分後の同23分ごろに沈没しました。
 この出来事についてはこれまで「対馬丸撃沈」「対馬丸沈没」「対馬丸遭難」などと呼ばれてきました。対馬丸は事故や座礁で遭難、沈没したのではなく、米軍の魚雷攻撃を受けて海の底に沈みました。こうした事実を明確に示すため、琉球新報は撃沈から70年を迎えるのを機に「対馬丸撃沈」と表記することにします。