コザの逸話語る ニューヨークレストランの徳富さん


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戦後のコザの歩みを語る徳富清次さん(右)=20日、沖縄市中央の戦後文化資料展示室ヒストリート2

 【沖縄】沖縄市の中心街、センター通りで長年レストランを営んだ徳富清次さんを招いた戦後史を記録する会(沖縄市市史編集担当主催)が20日、戦後文化資料展示室ヒストリート2で開かれた。「ニューヨークレストランとコザの街」をテーマに、米軍公認のAサインをめぐる隠れ話など、徳富さんが歩んだ戦後コザの姿を貴重なエピソードとともに語った。

 徳富さんは、鹿児島県大島郡喜界町生まれ。幼少のころにコザに移り、叔父のレストランを手伝った。1972年からセンター通りのニューヨークレストラン(現在閉店)のオーナーを務めた。
 ニューヨークレストランは、その変遷から戦後コザの象徴的存在。創業時は「30坪もない木造で、水を買い、まきを使って切り盛りした」という。最盛期には「のれん分けで県内17~18店舗を構えるまでになった」ことなどを織り交ぜ、街の風景を語った。
 米軍公認の飲食店に与えられる許可証・Aサインをめぐっては「米軍の許可のある野菜店や肉屋などの領収書がないと許可が出なかった。こういう店はだいたい高値販売で、全部買うと高くつくので、領収書をもらって調達は別の店でやっていたこともあった」と、苦労話を披露した。
 また書き入れ時は、ホワイトビーチに米艦船などが寄港した時だったと話す。「レストランもバーも夕方から大忙し。平日でも一日千ドルの売り上げがあったが、一日2千ドルの売り上げがあった時もあった」と懐かしそうに振り返った。
 ベトナム戦争前後の街の様子について、徳富さんは「戦争前、米兵は本当に紳士だった。遊びに行く前には理髪店に行って、靴もきれいに磨いてパックまでしてジャズの社交ダンスを楽しんだ。戦争に入った途端、がらっと変わった」と、戦争を機にすさんでいく米兵の様子を語った。
 日本への復帰運動については「センター通りは反対だった。全軍労が復帰でストをすると、外国人が街に出て来ない。商売にも影響が出た。それで各店でボーイを1人ずつ出させて闘い方を右翼に指導してもらい練習して、全軍労に石を投げて闘ったこともあった」と記憶をたどった。
 講演で徳富さんは、米国内の黒人差別がコザにもあったことにも言及。またコザの街の風俗や食の変遷についても触れ、参加者からは質疑が相次いだ。