米軍、1943年に普天間飛行場検討 沖縄戦の1年半前


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1943年10月に米軍内部で検討された資料で示された、沖縄本島の滑走路建設候補地。現在の嘉手納飛行場、普天間飛行場、那覇空港と同じか、極めて近い位置に候補地が示されている

 【ワシントン=島袋良太本紙特派員】沖縄戦が始まる1年半前の1943年10月の段階で、米軍が沖縄本島を占領した上で、現在の嘉手納基地、普天間飛行場、那覇空港と同じか極めて近い場所に滑走路建設を検討していたことが、米機密文書で分かった。

一方、44年7月の別の機密文書によると、滑走路建設を計画していた中南部が人口密集地であることを把握していた。基地被害に関して「基地建設後に住民が周辺に住み着いた」との米国関係者らの主張にも一石を投じそうだ。さらに戦争中の民間地奪取を禁じたハーグ陸戦条約を無視して滑走路建設が検討された可能性を示す文書もある。
 機密文書は米国立公文書館が所蔵し、機密指定は解除されている。
 滑走路建設を示した文書は、連合国軍最高司令部が作成した「ドイツ制圧から1年以内の日本制圧」と題した計画(43年10月25日付)。文書によると、米軍は沖縄からの北上ではなく、北海道から南下する形での本土制圧などの複数案も選択肢として検討していた。
 B29、B24爆撃機で日本本土を攻撃するために必要な8500フィート(約2600メートル)級滑走路の整備場所として、沖縄は「千島列島や小笠原諸島に比べ、掘削作業が少なくて済む」などと分析。添付地図で、三つの滑走路建設候補地を示している。
 本島中南部が人口密集地だと言及していたのは、当時最高機密扱いだった文書「琉球諸島の制圧計画」(44年7月18日付)。沖縄島の状況説明で「人口の大部分は島の南半分の市や町、農村に集中している」と分析している。
 一方、別の米機密文書「琉球諸島の制圧」(43年11月18日付)は、米海軍地理事務所の分析として、望ましい建設候補地を(1)豊見城市嘉数(2)同市伊良波(3)宜野湾市志真志-の土地を座標で示して列挙。いずれも現在の那覇空港と普天間飛行場から数キロの地点となっている。同文書はこの3地点は「サトウキビ畑」とも記しており、ハーグ陸戦条約を無視して滑走路建設が検討された可能性が高い。「那覇には大きな航空基地もある」と、日本軍の小禄飛行場(現那覇空港)の位置も示した。

<用語>沖縄戦と基地建設
 沖縄戦については、今回の滑走路建設計画を示した文書作成から約1年後の1944年10月3日に、米統合参謀本部が沖縄侵攻を正式に決定した。45年1月6日にはそれを具体化した「アイスバーグ作戦」がまとまった。実際の普天間飛行場は、45年4月の米軍上陸後に建設された。当初は43年10月の計画より短い7900フィート(約2400メートル)の滑走路で、53年に9千フィート(約2700メートル)に拡張された。嘉手納基地は日本軍の中飛行場、那覇空港は日本軍の小禄飛行場をそれぞれ米軍が拡張した。