1944年8月に米軍潜水艦の魚雷攻撃で沈められた学童疎開船・対馬丸の生存者や犠牲者が漂着した奄美大島の宇検村(元田信有村長)で、戦後70年を機に戦争体験の継承に向けた取り組みが始まっている。当時を知る人々への聞き取り調査を村史の編集に生かすほか、宇検村での慰霊碑建立も視野に入れている。
元田村長(64)が9日、那覇市の対馬丸記念館を初めて訪れ、生存者の平良啓子さん(80)=大宜味村=と当真秀夫さん(85)=沖縄市=の体験を聞き取った。
元田村長は8日に担当職員を連れて来県した。平良さんと当真さんに加え、他の生存者の家族も訪ねて話を聞いた。今後は宇検村でも、生存者を救助した人や遺体を埋葬した人への聞き取りを進める。奄美大島に流れ着いた遺体の数は正確には分かっていないが、宇検村の焼内湾では105人の遺体が引き揚げられたという。
対馬丸の慰霊碑は那覇市にある小桜の塔のほか、悪石島にも建立されている。
当真さんは、魚雷攻撃の爆風で同級生が目の前で命を落とした体験を元田村長に話した。いかだにしがみついて10日間漂流し、奄美大島の浜に漂着したという。「真っ暗な夜の海で、正気を失った人が『那覇の明かりが見えた』と言って海に落ちた。いかだに6人乗っていたが、岸に着いた時は私だけだった。助かったと思って気を失っていたら、地元の少年が水を飲ませてくれた」と振り返った。
6日間漂流して同村に近い無人島にたどり着いた体験を話した平良さんは「あと少し遅れていたら命がなかった状況で助けてもらった。奄美の方々は、遺族が訪ねてくることを考えて遺体を一人一人埋葬してくれた。今も足を向けて眠れない。ぜひ奄美の子どもたちにも対馬丸のことを伝えてほしい」と話した。
元田村長は「戦後70年が経過し、宇検村でも当時を知る人は少なくなった。宇検村と沖縄で聞き取りを進め、村史編集に生かす。沖縄との交流をさらに深め、将来的には慰霊碑建立も含めて真剣に取り組みたい。平和を次の世代に伝えるために何ができるか、考えていきたい」と話した。