「村上春樹を読む」「最高の善なる悟性」


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恐怖を超える・その1

 『若い読者のための短編小説案内』(1997年)の文庫版(2004年)には、文庫本のための序文として「僕にとっての短編小説」という村上春樹による自作短編についてのかなり長い文章がついています。

 その中で阪神大震災を統一テーマにした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)について、「時間が経つにつれて、『かえるくん、東京を救う』の存在意義が、この短編集の中で確実に重くなってきたようです」と書いています。同短編集の中で「かえるくん、東京を救う」という作品が「どうやらそのときの波のてっぺんに到達した、中心的な作品であるようだからです」と村上春樹は述べているのです。
 そして、この『神の子どもたちはみな踊る』の表題作を読むと、主人公の善也は大学時代に付き合っていた恋人から「かえるくん」と呼ばれていました。ですから短編集『神の子どもたちはみな踊る』の中心的な作品である「かえるくん、東京を救う」と、同短編集の表題作「神の子どもたちはみな踊る」とは、村上春樹の中で、密接に関係している作品なのだろうと思います。両作は、どのような点で、関係しているのか。今回の「村上春樹を読む」は、そのことを考えてみたいと思います。
 そして、今回も長いコラムとなってしまいそうですから、その結論をまず先に記してしまいましょう。両作は村上春樹作品の大きなテーマである「恐怖を超える」ということで繋がった短編だと、私は考えています。さらに、これらの作品を「恐怖を超える」という視点から読むことを通して、大作『1Q84』(2009年~2010年)との関係も探ってみたいと思います。
 このようなことを今回、考えてみたいと思ったのは、前回のコラムで『1Q84』の青豆がリーダーを殺害した後、ホテルの部屋を出る場面で、青豆が非常な恐怖を感じるところを紹介したからです。その場面には、村上春樹が考える「恐怖」というものの姿が、実際の小説の中で、表現されているのではないかと思いました。
 『1Q84』のリーダーには「坊主頭」と「ポニーテイル」の2人のボディガードの男が付いているのですが、青豆がリーダーを殺害後、ホテルの部屋を出るために、戸口に近づくと、ポニーテイルの男が椅子から立ち上がって、ドアを開けてくれます。坊主頭の男は「あなたはヨーガマットを持って行くのを忘れています」などと青豆に話しかけてきますが、その間、ポニーテイルの男はひとことも話しません。
 前回も紹介しましたが、そのドアを開けてくれたポニーテイルに、青豆は小さく会釈をして「この人はとうとうひとことも口をきかなかった」と思います。
 そして青豆は、彼の前をすり抜けようとするのですが、その一瞬、暴力的な思念が強烈な電流のように青豆の肌を貫くのです。
 「ポニーテイルの手がさっと伸びて、彼女の右腕をつかもうとした。それはきわめて迅速で適確な動作であるはずだった。空中の蠅をつかめそうなくらいの速さだ。そういう生々しい一瞬の気配がそこにあった」と村上春樹は書いています。それに続いて「青豆の全身の筋肉がこわばった。鳥肌が立ち、心臓が一拍分スキップした。息が詰まり、背筋を氷の虫が這った。意識が激しい白熱光に晒された」と記されています。
 でもこの場面は実際にあったことではなく、青豆の想念の中で起きたことのようです。
 「ポニーテイルの手がさっと伸びて、彼女の右腕をつかもうとした。それはきわめて迅速で適確な動作であるはずだった」と村上春樹は書いています。
 実際に「ポニーテイルの手がさっと伸びて」きたように、読んでいた私も、まるで自分が青豆であるかのように「恐怖」を感じたのですが、でも「適確な動作であるはずだった」と村上春樹は書いていたのです。
 しかも、青豆が老婦人からリーダーの殺害を依頼されている第3章で、そのボディガードの2人について、老婦人が知らせてくれた情報を考えてみれば、この場面で、それを「恐怖」に感じなくてもいいことがわかります。つまり老婦人によるとボディガードの2人は空手の有段者だが、所詮はアマチュアで、相手が若い女性であったときには、ためらいを感じてしまうような人たちであることが紹介されているのです。
 ですから、実際には、ポニーテイルも、ためらいを感じてしまうような人物ですから、彼の手がさっと伸びてくることはないし、たとえ伸びてきてもたいしたことはないのです。あの「恐怖」は、青豆の想念の中で起きたことなのです。
 「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」。こんなジョセフ・コンラッドの言葉が「かえるくん、東京を救う」の中に記されているのですが、青豆の恐怖の場面、ポニーテイルの手がさっと伸びてきたと思った時の青豆の恐怖の場面には「自らの想像力に対して抱く恐怖」というものが、描かれているのではないかと思います。
 その「恐怖」というものについて、「かえるくん、東京を救う」と「神の子どもたちはみな踊る」の両作を通して、少し考えを進めてみたいと思います。
      ☆
 まず「かえるくん、東京を救う」のほうから。これは村上春樹自身が「かなり奇妙な筋の物語」という作品です。信用金庫に勤める、あまりぱっとしない中年の片桐のアパートの部屋を、ある日、巨大な蛙が訪れます。その「かえるくん」と片桐が協力して、東京の巨大直下型地震を未然に防ぐという話です。
 片桐は東京安全信用金庫新宿支店の融資管理課に所属して、みなが嫌がる返済金の取りたて係をずっとやってきました。返済の督促に行って、何度か、やくざにまわりを囲まれ、殺してやると脅されたこともあるのですが、でも片桐は「とくに怖いとは思わなかった」そうです。それは「信用金庫の外回りを殺して、それが何の役に立つというのだ」と思っていたからです。
 片桐は両親が既に亡くなっているので、自分が弟と妹の面倒をみて大学を出してやり、結婚もさせています。自分には妻子もありません。「今ここで殺されたところで、誰も困らない。というか、片桐自身、とくに困りもしない」と思っているのです。おかげで片桐はその世界では、肝の据わった男としていささか名前を知られるようになっています。
 かえるくんは、そんな片桐に「ぼくはつねづねあなたという人間に敬服してきました」と話しています。片桐の弟と妹は、片桐の世話になったことをちっとも感謝していませんが、片桐は別に腹を立てるでもありません。
 「あなたは筋道のとおった、勇気のある方です。東京広しといえども、ともに闘う相手として、あなたくらい信用できる人はいません」と、かえるくんは片桐に言うのです。
 東京直下型地震の原因は地下にいる「みみずくん」の中に蓄積された様々な憎しみです。かえるくんは、片桐と一緒に、そのみみずくんの憎しみと闘おうというのです。
 それに対して片桐は「私よりもっと強い人はほかにいるでしょう。空手をやっている人とか、自衛隊のレンジャー部隊とか」と応じています。
 『1Q84』の「リーダー」のボディガードの2人は空手をやっている人ですし、そのボディガードたちを「アマチュア」だと言ったのは、老婦人のセキュリティ担当であるタマルですが、彼は自衛隊のレンジャー部隊に所属していたこともある人ですので、「かえるくん、東京を救う」の、この部分は『1Q84』に繋がるディテールだと思います。
 さて、片桐の言葉に対して「実際に闘う役はぼくが引き受けます」とかえるくんは応えています。でも「ぼくにはあなたの勇気と正義が必要なんです。あなたがぼくのうしろにいて、『かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい』と声をかけてくれることが必要なのです」と言うのです。
 「ぼくだって暗闇の中でみみずくんと闘うのは怖いのです」と、かえるくんは話します。さらにニーチェの言葉として、「最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬことです」とも述べています。その〈恐怖を持たぬ最高の善なる悟性の人間〉が片桐ということなのでしょう。『1Q84』の青豆が抱いた恐怖のようなものを片桐は持たないのです。そんな「片桐さんにやってほしいのは、まっすぐな勇気を分け与えてくれることです。友だちとして、ぼくを心から支えようとしてくれることです」とも、かえるくんは言っています。
      ☆
 それでは、大学時代に付き合っていた恋人から「かえるくん」と呼ばれていた「神の子どもたちはみな踊る」の主人公・善也の「恐怖」とは何でしょうか。
 少年時代の善也にとっての恐怖は、野球の試合で、たいていの外野フライを落球してしまうことでした。勉強の成績はまずまずでしたが、スポーツに関しては救いようがなかったのです。落球すると、チームメートは文句を言い、見物している女の子はくすくすと笑ったのです。
 その善也には父親がいません。生まれたときから、母親しかいませんでした。お父さんは「お方」なんだよと、母親は小さい頃から彼に言っていました。「お方」とは、自分たちの神の呼び名です。善也の母親はある教団の信者で、ほかの信者と出かけたり、善也が小学校時代は週に1回は布教活動に連れていったりした人です。
 善也は夜寝る前に、父親である神様にお祈りをしました。「うまく外野フライをとれるようにしてください。それだけでいいんです」と。もし本当に神様が父親であるなら、それくらいの願いは聞き入れてくれてもいいはずだったのですが、願いはかなえられず、外野フライは善也のグローブからこぼれ落ち続けたのです。
 しかし善也は17歳の時に、母親から出生の秘密を知らされます。それによると、不思議にもよく妊娠してしまう母親が、妊娠の相談にいった産婦人科医と付き合うようになります。その医師は幼いときに犬に右の耳たぶを食いちぎられたため、右の耳たぶが欠けていました。
 そして、完全に避妊していたのに母親はまた妊娠してしまいました。しかも他の男とは一切付き合っていなかったのに、不思議にも妊娠してしまったのです。でも恋人から他の男性との関係を疑われて、その医師とは会えなくなってしまうのです。
 そうやって、善也の母親が生きることに絶望して、死んでもいいと思っていた時に「田端さん」という、教団の「導き手」が声をかけてくれて、その導きと、まわりの信者のたすけを借りて、善也をこの世に産み落としたのです。
 物語の最後、夜の10時半過ぎ、我孫子行きの千代田線の電車に乗った右側の耳たぶの欠けた男を善也は見つけて、自分も同じ電車に乗ります。千葉県に電車が入ろうとする手前の駅で、男は降りて、タクシーに乗ったので、そのあとを、善也もタクシーで尾行していきます。
 車を降りた男は、狭い路地のようなところを通過して、暗闇の中を通っていきます。路地は袋小路で、正面が金属のフェンスでふさがれているのですが、でも人が1人やっと通り抜けられるぐらいの穴が開いていて、これをくぐると、そこは野球場だったのです。善也が立っているのは外野のセンターあたりでした。つまり、その場所は少年時代の善也が、いつも外野フライを落球するのではないかという「恐怖」を感じていたところですね。
 そこから、善也はホームベースに向かってゆっくり歩きだすのです。そしてもう、善也があとをつけてきた父親らしき男の姿はありません。
 善也はピッチャーズ・マウンドにあがり、マウンドの上で、両腕をぐるぐるまわしてみます。それにあわせて、脚をリズミカルに前にやったり、横に出したりして、しばらく、その踊りのような動きを続けています。
 そうするうちに、前記したように、大学時代につきあっていた女の子から「かえるくん」と呼ばれていたことを思い出すのです。その女の子から「かえるくん」と呼ばれたのは善也の踊り方が蛙に似ていたからです。その彼女は踊るのが好きで、よく善也をディスコに連れていったのですが、その時に「あなたってほら手足が長くて、ひょろひょろと踊るじゃない。でも雨降りの中の蛙みたいで、すごくかわいいわよ」と彼女は言うのです。
 その言葉に善也は少し傷つくのですが、彼女につきあって何度も踊っているうちに、踊ることがだんだん好きになっていったのです。「音楽に合わせて無心に身体を動かしていると、自分の身体の中にある自然な律動が、世界の基本的な律動と連帯し呼応しているのだというたしかな実感があった」と書いてあります。「潮の満干や、野原を舞う風や、星の運行や、そういうものは決して自分と無縁のところでおこなわれているわけではないのだ」と善也は思ったのです。
 ピッチャーズ・マウンドの上で、善也は「踊るのも悪くないな」と思い、1人で踊り始めるのです。草のそよぎと雲の流れにあわせて踊るのです。「神の子どもたちはみな踊るのだ」と思うのです。
 「彼は地面を踏み、優雅に腕をまわした。ひとつの動きが次の動きを呼び、更に次の動きへと自律的につながっていった」とあります。そんな踊りには「パターンがあり、ヴァリエーションがあり、即興性があった。リズムの裏側にリズムがあり、リズムの間に見えないリズムがあった」と記されていますし、その複雑な絡み合いは「様々な動物がだまし絵のように森の中にひそんでいた。中には見たこともないような恐ろしげな獣も混じっていた」と村上春樹は書いています。
 「でも恐怖はなかった。だってそれは僕自身の中にある森なのだ。僕自身をかたちづくっている森なのだ。僕自身が抱えている獣なのだ」と、村上春樹は記しているのです。
 この『神の子どもたちはみな踊る』の表題作は、連作短編の中で最も難しい作品だと言っていいでしょう。新興宗教の信者によって育てられた子どもの話であるという点も大きいでしょうか。
 オウム真理教信者による地下鉄サリン事件が起きた後、その被害者たちに聞いたノンフィクション『アンダーグラウンド』(1997年)という仕事が村上春樹にあることは有名ですが、そのころから、オウム真理教の教祖である麻原彰晃の「物語」に対抗して、負けない「物語」をつくっていかなくてはいけないと村上春樹は繰り返し語っています。
 善也の母親はほかの信者さんたちと、大阪にある教団の施設に泊まり込んで、阪神大震災のあとの神戸にいって人びとに生活必需品を配ったりしているようです。でも善也のほうは中学校にあがってほどなく、信仰を捨てています。
 このように「神の子どもたちはみな踊る」という作品は、宗教というものを簡単に否定する物語ではなく、宗教の側に身を1度おきながら、そこから抜け出して、1人の人間として、独立してくるような物語になっていると思います。
 『1Q84』の青豆の両親は、宗教団体「証人会」の信者でしたし、青豆自身は10歳の時に両親を捨てて家を出た人という設定になっています。その青豆が、カルト宗教教団のリーダーと対決して殺害する物語ですから、この「神の子どもたちはみな踊る」から、大きく発展した大長編だと言ってもいいかとも思います。
 善也は、少年時代、外野フライを落球する「恐怖」で、たいへんでした。でもピッチャーズ・マウンドの上で踊る青年の善也は「ひとつの動きが次の動きを呼び、更に次の動きへと自律的につながって」いくように、落球の「恐怖」を超えて“自律的な動き”の中に生きる人間となっているのです。「自分の身体の中にある自然な律動が、世界の基本的な律動と連帯し呼応しているのだというたしかな実感」を感じながら、生きることができる人間になっているようです。つまり「恐怖」を超えた人間なのです。
 もう、父親が「お方」であることも、右側の耳たぶの欠けた男であることも、関係のない場所に、善也は抜け出しているのです。
 『1Q84』の青豆も10歳で両親を捨てて家を出た人間ですし、青豆の相談相手になるタマルは、サハリン生まれの在日朝鮮人ですが、彼も両親と別れた孤児です。ふかえりもリーダーである父のコミューンを出てきた人間です。ここに共通するのは、血のつながりではない形の新しいファミリー形成です。
 父親が誰であるかという問題から、自律的に独立した場所に至った「神の子どもたちはみな踊る」の善也に繋がる感覚がありますね。
      ☆
 さて、我々が生きる世界は今、たいへんな混乱の中にあると思います。その中で、村上春樹作品にしばしば出てくる、この「恐怖を超える」ということが、どのような意味を持っているのか。その点を考えてみたいのですが、ここまででも、かなり長いコラムとなってしまいました。この問題を『1Q84』に出てくる青豆の「恐怖」の姿などを通して、次回のコラムで、引き続き考えてみたいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)
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小山鉄郎のプロフィル
 こやま・てつろう 1949年、群馬県生まれ。共同通信社編集委員兼論説委員。村上春樹氏の文学や白川静氏の漢字学の紹介で、文芸記者として初めて日本記者クラブ賞を受賞(2013年度)。「風の歌 村上春樹の物語世界」や「村上春樹の動物誌」を全国の新聞社に配信連載。著書に『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)、『空想読解 なるほど、村上春樹』(共同通信社)、『村上春樹を読む午後』(文藝春秋)、『あのとき、文学があった―「文学者追跡」完全版』(論創社)。
 白川静氏の漢字学をやさしく解説した『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』(ともに共同通信社、文庫版は新潮文庫)や『白川静文字学入門 なるほど漢字物語』(共同通信社)もある。

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