「村上春樹を読む」自己解体と意識の再編成


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恐怖を超える・その2

 現代社会が、もう欧米のロジックでは解決がつかない問題を抱えた世界にあることは誰の目にも明らかだと思います。既存のシステムの中には、既に答えはなく、いま私たちは世界中の叡智を集めて、新しい社会を作り出さなくてはいけないところにいると思います。

 この現代社会は、どこから始まったかと言えば、私は1989年からだろうと考えています。この年にベルリンの壁が崩壊して、旧ソ連につながる東側陣営が崩壊しました。多くの人が平和な時代がくると期待していましたが、やってきたものは世界の混乱でした。
 それ以前は、西側の自由主義陣営と東側の共産主義陣営で、「善」と「悪」の形は、次のようにありました。つまり自由主義陣営では、自分たちが「善」で、共産主義陣営は「悪」でした。共産主義陣営でも自分たちは「善」で、自由主義陣営こそが「悪」でした。そのようにして世界の「善」と「悪」が存在していたのです。
 そして旧ソ連を中心とする共産主義陣営が崩壊して、自由主義陣営の勝利のようにして、東西両陣営の対立は決着しましたが、でも今度は2001年9月11日、米国で旅客機4機が乗っ取られて、そのうちの2機が突っ込んだニューヨークの世界貿易センタービル2棟が崩壊します。この映像が世界中にライブで流れ、大変な衝撃を与えました。
 3機目の旅客機は米国防総省に激突、4機目は東部ペンシルベニア州で墜落しました。このテロで日本人24人を含む約3千人が死亡。米国はこのテロを受けて、アフガニスタン戦争、イラク戦争へと進んでいくのですが、現在のイスラム国の誕生を見ても明らかなように、米国が「善」なる大義で、「悪」なるものを一時的に打ち破っても、現実には世界中でイスラム教徒の若者を新たなテロへと向かわせて、テロが拡大、拡散していくということになってしまっています。戦いがなくなる道にまったく繋がっていないのです。
 犠牲者を生み出す「テロ」は、確かに「悪」ですが、でも「悪」を部分的に抹殺しても、「悪」は消滅せず、むしろ「悪」なるテロは拡大・拡散していくだけです。しかも「聖戦」という考え方を持つ人たちからしたら、テロは「善」なのです。「善」と「悪」が移動し、拡大・拡散し、瞬時に入れ替わるような世界を我々は生きているのです。
 それだからと言って、東西両陣営が対峙していた1989年以前に戻るというわけにもいかないのです。確実に、時代は次へと進んでしまったのですから。
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 このような「善」「悪」が動きまわる時代に、「善」と「悪」はどのようにあるのか。どのようにあるべきか。それに対する村上春樹の考えが『1Q84』のリーダーと青豆の対決場面に描かれています。
 「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪のバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ。わたしがバランスをとるために死んでいかなくてはならないというのも、その意味合いにおいてだ」
 このリーダーの言葉は、1989年以降の世界の変化に対する村上春樹の考えを述べたものでしょう。いま「善」は、いかにあるべきかを記しているのだと思います。大切なのは「善」と「悪」の状況、状態を説明しているのではないということです。この言葉がある章の名が「均衡そのものが善なのだ」となっているように、1989年以降の世界にとって、「善」はいかにあるべきかを考えているのです。このリーダーの言葉は、混乱する時代の中で、新しい世界はどのように作り上げられるべきか、その新しい世界で「善」はいかにあるべきかということの村上春樹の思考を表しているのです。
 さて、では、このように「動き回る善と悪とのバランスを維持」して「均衡そのものが善」の状態に、我々が進むには、どのような困難があるのでしょうか。
 前置きが長く、話のスケールが大きすぎて、小説についてのコラムのサイズに合わないかもしれませんが、今回の「村上春樹を読む」のテーマ「恐怖を超える・その2」という点から、そのことを少しだけ考えてみたいと思います。
 これまであったシステムが無効となり、いま世界中の人たちが、みないいものを持ち寄って、新しい秩序を作り上げるとしたら、それは少し考えてみれば明らかですが、世界が新しく再編成されるには、皆がいまいる場所から動いていかなくてはならないのです。
 その過程では、自分たちと異なる多くの者に出会います。それは闇の中を進むようなものです。闇の中で自分と異なる多くの者に出会うことは、恐怖の体験でもあるでしょう。ですから、その恐怖の対象を抹殺しようとする人たちもいるかもしれません。でも、そのものの姿をよく見ないうちに、見知らぬものに抱く恐怖から、相手を抹殺していたら、新しい世界はやってきません。我々は恐怖を超えていかなくてはならないのです。簡単には解決策の見えない、その闇の中を抜け出して、新しい一つのまとまりと方向性を共有するには、恐怖を超えて、自分自身の意識を再編成しなくてはならないのです。
 相手を殲滅して、正しい自分の世界を拡げていく…という道では、世界は新しく再編成されないのです。それぞれの自分自身が再編成されることによって、世界は新しく生まれ変わり、新しい秩序を持つのだと思います。
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 そのことをよく示しているのが、短編集『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)の中にある短編「かえるくん、東京を救う」だと思います。この「かえるくん、東京を救う」は最後の場面が難しいですね。でも、ここに重要な村上春樹の考えが記されていると思います。
 「かえるくん、東京を救う」は、「かえるくん」が信用金庫の新宿支店に勤務する「片桐」の力を借りて、3日後に起きる東京直下型の地震を未然に防ぐ物語です。
 地震の原因は、地下50メートルにすむ巨大な「みみずくん」の心と身体の中で「長いあいだに吸引蓄積された様々な憎しみ」の力です。そのみみずくんとの闘いぶりを、かえるくんは片桐に、次のように語ります。「みみずくんはぼくの身体に巻き付き、ねばねばした恐怖の液をかけました。ぼくはみみずくんをずたずたにしてやりました。でもずたずたにされてもみみずくんは死にません。彼はばらばらに分解するだけです」と。
 ついに、かえるくんは恐怖を持たない片桐の助けを借りて、その地震を未然に防ぎます。でもみみずくんを抹殺して防いだのではありません。「ぼくはみみずくんを打ち破ることはできませんでした」「地震を阻止することはどうにかできましたが、みみずくんとの闘いでぼくにできたのは、なんとか引き分けに持ち込むことだけでした」とかえるくんは片桐に語っています。かえるくんは、みみずくんとの闘いをなんとか引き分けに持ち込むことで、地震を未然に防いだのです。
 そして、この小説の最も難しいところですが、地震の原因であるみみずくんのほうではなく、地震を未然に防いだかえるくんの体のほうが、醜い瘤だらけとなり、その瘤がはじけて、皮膚が飛び散り、悪臭だけの存在となっていきます。そこからさらに蛆虫のようなものがうじゃうじゃと出てきて…というふうに解体していくのです。
 これはどんなことを村上春樹が書いているのでしょうか。それを考えるうえで、大切なことが作中に記されています。かえるくんは、みみずくんとの闘いの後で、片桐にこんなことを語るです。
 「ぼくは純粋なかえるくんですが、それと同時にぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」「目に見えるものが本当のものとはかぎりません。ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中には非ぼくがいます」
 つまり「かえるくん」の中には、地震を未然に防ぐ「かえるくん」だけではなく、それと違う「非かえるくん」もいるのです。その「非かえるくん」は、みみずくんと同じように「長いあいだに吸引蓄積された様々な憎しみ」の力を有しているのかもしれません。
 ですから、かえるくんは相手のみみずくんを打ち破り、抹殺することによって、闘いに勝つのではなく、自分の中の地震を起こすような何か、大きな災いを起こすようなものを打ち破らなくはならないのです。何かを阻止したり、世界を新しく再編成していくには、自分の中にある、それにかかわる部分を再編成しなくては、ほんとうに新しい世界は生まれないのです。相手を殲滅して、打ち破っても、こちら側の世界だけになってしまったら、それでは相手と同じものが別の形で出現したことに変わりないのです。そのように、村上春樹が考えていることを反映した「かえるくん」の「ぼく」と「非ぼく」なる存在、その再編成に向けた自己解体なのだと思います。
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 そこで『1Q84』に戻りますと、「均衡そのものが善なのだ」の章の、次の青豆とリーダーの対決の章名は「もしあなたの愛がなければ」なのですが、その中でリーダーは青豆に「怯えることはない」と語っています。青豆は「怯える?」と問い返します。
 するとリーダーは「君は怯えている。かつてヴァチカンの人々が地動説を受け入れることを怯えたのと同じように。彼らにしたところで、天動説の無謬性を信じていたわけではない。地動説を受け入れることによってもたらされるであろう新しい状況に怯えただけだ。それにあわせて自らの意識を再編成しなくてはならないことに怯えただけだ」と言うのです。
 ここにも「かえるくん、東京を救う」と同じように、新しい状況に対応する自己解体と自分の意識の再編成の必要性が表明されています。
 しかし、人はなかなか、自己を解体して、自分の意識を再編成する方向に、闘いの進路を決めることができないのです。怯えて、その恐怖を超えていくことができないのです。つい相手を打ち破って、自分の正しさを確認しようとしてしまいます。でも「ぼく」の中には「非ぼく」がいるのです。自分の中の、その「非ぼく」を超えていくには、自己を解体して、再編成する道でしか、新しい世界は生まれないのですが、なかなか自分の意識を再編成するという、その恐怖を超えていくことができないのです。
 「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」。こんなジョセフ・コンラッドの言葉が「かえるくん、東京を救う」の中に記されていることを前回も紹介しましたが、再編成することへの、その「自らの想像力に対して抱く恐怖」に負けてしまう人が多いのです。
 かえるくんはみみずくんとの闘いについて片桐に述べるとき、まずこのように話しています。
 「すべての激しい闘いは想像力の中でおこなわれました。それこそがぼくらの戦場です。ぼくらはそこで勝ち、そこで破れます」
 この言葉が、最後のかえるくんの自己解体を予告しています。「勝ち」「敗れます」ではなく、「勝ち」「破れます」と村上春樹は書いているのですから。
 「でもずたずたにされてもみみずくんは死にません。彼はばらばらに分解するだけです」というみみずくんに対する、かえるくんのコメントも再編成についての言葉のように、私には響いてくるのです。
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 村上春樹は、さまざまな作品で、この「恐怖を超える」ことを書いています。
 『神の子どもたちはみな踊る』の表題作の主人公・善也は、ダンスの踊り方が蛙に似ていたので、大学時代につきあっていた女の子から「かえるくん」と呼ばれていました。その善也が「神の子どもたちはみな踊る」の最後に、ピッチャーズ・マウンドの上で踊ります。その時、善也は「自分の身体の中にある自然な律動が、世界の基本的な律動と連帯し呼応しているのだというたしかな実感があった」と思います。そのことは、前回も紹介しました。
 しかし長い時間を踊り続けている善也は、自分が踏みしめている大地の底に存在するもののことを、ふと思うのです。「そこには深い闇の不吉な底鳴りがあり、欲望を運ぶ人知れぬ暗流があり、ぬるぬるとした虫たちの蠢(うごめ)きがあり、都市を瓦礫の山に変えてしまう地震の巣がある。それらもまた地球の律動を作り出しているものの一員なのだ」と考えるのです。
 ここにも、自然の律動の中にある「ぼく」だけではない、不吉な底鳴りがある「非ぼく」の世界が記されています。
 その時、善也は、森の中にいて、そこには見たこともないような恐ろしげな獣も混じっているのですが、「でも恐怖はなかった。だってそれは僕自身の中にある森なのだ。僕自身をかたちづくっている森なのだ。僕自身が抱えている獣なのだ」と、村上春樹は記していました。
 これらの言葉の中に、今、起きている世界の大きな混乱を超えて、新しい価値を創造していくという、村上春樹の志のようなものが秘められていることを、私は読むたびに感じるのです。(共同通信編集委員・小山鉄郎)
(共同通信)
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小山鉄郎のプロフィル
 こやま・てつろう 1949年、群馬県生まれ。共同通信社編集委員兼論説委員。村上春樹氏の文学や白川静氏の漢字学の紹介で、文芸記者として初めて日本記者クラブ賞を受賞(2013年度)。「風の歌 村上春樹の物語世界」や「村上春樹の動物誌」を全国の新聞社に配信連載。著書に『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)、『空想読解 なるほど、村上春樹』(共同通信社)、『村上春樹を読む午後』(文藝春秋)、『あのとき、文学があった―「文学者追跡」完全版』(論創社)。
 白川静氏の漢字学をやさしく解説した『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』(ともに共同通信社、文庫版は新潮文庫)や『白川静文字学入門 なるほど漢字物語』(共同通信社)もある。

ベルリンの壁崩壊後、壁に登る市民=1989年11月12日
小山鉄郎