人民党監視、東京でも 61年、米秘密文書で判明


社会
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米公文書を読む古堅実吉さん=那覇市内

 沖縄が米施政権下だった1961年9月、当時の琉球政府立法院議員で、沖縄人民党所属だった古堅実吉さん(86)=那覇市=が上京した際、日本共産党などの政界要人と面談する古堅さんを尾行した記録が米公文書で残されている。古堅さんが10日までに本紙取材を通じて文書を初めて確認し、尾行されていた事実も初めて知った。古堅さんは「本土は米軍占領下でもなかった。このような監視が許される理由もない。不当な人権侵害だ」と憤った。

 反共政策を掲げていた米側は1950~60年代、共産主義とみなす人民党の動向を監視していたが、監視網は沖縄にとどまらなかった。人民党委員長の瀬長亀次郎さんが50年代に上京した時も日本の警察に尾行されていたことが米国立公文書館の保管資料で分かっている。

 60年に県祖国復帰協議会が結成されるなど、60年代は復帰運動が高揚した。当時、唯一の人民党所属の立法院議員だった古堅さんは要監視人物として尾行され、警察など日本政府が協力していたとみられる。

 資料は、米国立公文書館に保管されていた米軍諜報機関作成の秘密指定文書(通称・IRR文書)。県公文書館が米国で収集し、同館にも収蔵されている。

 米陸軍渉外分遣隊東京事務所が「秘密情報源」から1961年10月27日に情報を受け、英文で作成された。

 61年9月15、16、20、25、27日における古堅さんの訪問先、面談相手を詳細に記録している。

 このうち16日には古堅さんと日本共産党の野坂参三議長、20日には自由法曹団の宮川寛雄弁護士と面談したと記録されている。これは当時の古堅さんの日記と一致した。一方、一致しない記載箇所もあった。

 古堅さんは「もはや占領下でもない本土で、このような監視活動が許されていいのか。まるで犯罪者扱いだ。政治活動や市民運動は本来、自由に認められた行動だ。監視は許されない」と批判した。さらに「県民、日本国民に対し、日米両政府による許し難い人権侵害行為が過去から継続していることも、今回の文書で浮き彫りになった」と指摘した。(島袋貞治)