有料

戦争は「地獄の情景」 フィリピンの山中を逃げ惑う 親族4人犠牲の仲田さん、恒久平和誓う 金武町戦没者追悼式 沖縄


戦争は「地獄の情景」 フィリピンの山中を逃げ惑う 親族4人犠牲の仲田さん、恒久平和誓う 金武町戦没者追悼式 沖縄 小学生の時にフィリピンで戦争を体験した仲田一夫さん =6日、金武町金武の芳魂の塔
この記事を書いた人 Avatar photo 武井 悠

 金武町遺族会会長を20年以上務める仲田一夫さん(87)はフィリピンで戦争を体験し、山中で約半年間、家族と避難生活を送った。フィリピンへの日本軍上陸から終戦後の疎開までに父と2人の弟を亡くし、祖母も沖縄戦で亡くなった。6日に同町で開かれた戦没者追悼式であいさつした仲田さんは戦時中の様子を「地獄の情景が昨日のように脳裏に焼き付き、離れない」と振り返り、恒久平和を誓った。

 仲田さんは1936年、フィリピン・ミンダナオ島のダバオで生まれた。両親は沖縄出身、自身は長男で3人の弟がいた。両親は移民として渡ってアバカ(マニラ麻)を栽培し、戦前の暮らしは裕福だったという。

 日本軍が41年12月にフィリピンを攻撃すると暮らしは徐々に変わった。仲田さんによると、父親は反日ゲリラに包囲された後、養鶏場に隔離されて命を落とした。米軍が45年4月にミンダナオ島へ上陸すると山中での避難生活が始まり、艦砲射撃の弾が飛び交う中、母と子ども4人でジャングルのような山中をさまよった。山中では日本軍による住民からの食料強奪もあり「一番怖いのは日本の友軍だった」と語る。半年後、同じように避難生活を送っていた周囲の提案で米軍に投降したが、末の弟は避難生活中に栄養失調で亡くなった。

 仲田さん一家は45年冬、フィリピンの収容所から鹿児島に移送され、大分で疎開生活を送った。母は日雇いの仕事を始めたが生活は苦しく、割り当てられた民家の馬小屋で生活しながら、捨てられた大根の葉や芋の食べ残しなどを食べて飢えをしのいだ。約半年の疎開生活後、46年に沖縄へ戻ったが、3番目の弟は寒さと飢えのため疎開先で亡くなり「食べ物やすみかもなく悲惨な生活だった」と悲痛な表情を浮かべる。

 終戦から79年が経過した今も戦争がやまない世界に対し、仲田さんは「世界のトップが和平構築できないのか」と顔を曇らせる。台湾有事を口実に基地拡張などが進む沖縄の現状にも触れ「非常に先が心配だ」と憂い、「戦争で二度と私たちのような遺族を生み出してほしくない」と語気を強めた。

 (武井悠)