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部室から眺めた海、寝っ転がった大きな椅子 オレンジレンジ育んだ校風とは 北谷高校(11)<セピア色の春>


部室から眺めた海、寝っ転がった大きな椅子 オレンジレンジ育んだ校風とは 北谷高校(11)<セピア色の春> オレンジレンジの(左から)HIROKI、NAOTO=7月26日、琉球新報社
この記事を書いた人 Avatar photo 仲村 良太

 県出身バンド「ORANGE RANGE(オレンジレンジ)」の結成は20年以上前にさかのぼる。

 北谷高校に入学したNAOTO(40=ナオト)、YOH(39=ヨウ)は元メンバーのKATCHAN(カッチャン)に誘われ、バンドを結成。そこにナオトと仲の良いHIROKI(40=ヒロキ)が加入した。高1の頃は4人だった。さらに、ヨウの弟でラップが好きなRYO(38=リョウ)、中部商業高校に通っていたYAMATO(39=ヤマト)が加わった。2001年3月、オレンジレンジが誕生した。

 「地元でよく遊んでいた。学校が終わって、公園でバスケするとか」とヒロキは振り返る。メンバーは全員山内中出身。曲名にもある「山内公園」がたまり場で、よく遊んだ。

 北谷高のメンバーは意外にも、軽音楽部の「ヤミ部員だった」とナオトは明かす。部費を払いたくなく、正式に入部していなかったという。だが、熱意が伝わったのか、いつも顧問の教諭から部室の鍵を借り「好意」で使わせてもらっていた。部室は校舎の階段を上りきった屋根裏部屋のような場所だったが、眺めが良かった。眼下には夕日が映える西海岸が広がっていた。

 ヒロキが学校でお気に入りの場所は売店横にあった、日陰になったコンクリート打ちっ放しの大きな椅子だった。「そこで寝っ転がっていた」。体育館に抜ける通路で風が通って涼しかった。ナオトは一つ先輩で、地元CMに出るなど芸能活動をしていた金武万里子に憧れていた。「ファンだった。授業を抜けて体育の授業を見に行った」とはにかむ。人生の猶予期間を楽しんでいた。

 北谷高は音楽活動が盛んだ。ナオトたちの一つ上には、サッカー部に所属しながら、後にメジャーデビューしたロックバンド「ホイフェスタ」でドラムを担当するハムという先輩がいた。バンドだけでもパンク、ハードコア、ミクスチャーと多彩で、ヒップホップやレゲエのグループもあり、北谷町や沖縄市のライブハウスやクラブで活動していた。

 毎年、体育祭などの締めくくりで開かれる「後夜祭」では、バンドなどによるライブがメーンイベントだった。希望すれば出られる訳ではなく、校内のオーディションを勝ち抜かなければいけなかった。オレンジレンジも例に漏れず、2年の頃からオーディションに参加し、ステージを目指した。

 アマチュア時代だった当時、結成から数カ月でオリジナル曲を作り始める。01年7月には沖縄市のイベントで初ライブ。年間70本もライブし、観客も増えた。「チケットをたくさん売ったのは学年が違うリョウと中商のヤマト。自分たちは全然売れなかった」。ヒロキとナオトは笑う。バンドは注目され、音楽事務所から声が掛かる。放課後にスタジオに行き、制服のままレコーディングした。デビューに向けて準備が始まった。

 デビュー後も学校では特別扱いされることはなかった。ただ、ポスターを職員室に持っていくと、各教室に貼ってもらった。学校を挙げて応援していた。

 オレンジレンジの原点の場所となった北谷高。出身の山内中と共にメンバーの思い入れは強い。03年6月のメジャーデビューから4カ月、人気急上昇のさなかに山内中で在校生を対象に限定ライブを開いた。21年にはコロナ禍で学校行事などが満足にできなかった北谷高の在校生のために、北谷町花の名前をとった「フィリソシンカ」という曲を制作した。生徒たちがエイサーで踊れる琉球音階のアップテンポの曲で、体育発表会で披露した際はナオトとヒロキも訪れ、共に思い出を作った。

 自由奔放な日々を送ったヒロキは高校生活について「先生たちが伸び伸び育ててくれた。それでバンドも続けられた。人間形成ができた」と感謝の気持ちを語る。ナオトはバンドではなく、祖父のゴミ収集の手伝いで授業に出ないこともあったが、怒られることはなかったという。「『社会に出る準備だからいい』と言ってくれた先生がいた。勉強よりも大切なことを教えてくれた。芸術にも寛容で、個性を大事にしてくれた」と振り返る。人気バンドの地位を確立しながらも、飾らず、自然体の魅力を解き放つオレンジレンジ。北谷高の校風を体現しているようにも思える。

(敬称略)
(仲村良太)
(北谷高校編は今回でおわり)