両手につえで熱血指導 私財投じ44年 少年野球・安谷屋ライオンズ 前監督・棚原さん 葬儀に教え子ら750人


両手につえで熱血指導 私財投じ44年 少年野球・安谷屋ライオンズ 前監督・棚原さん 葬儀に教え子ら750人 熱心な指導が「怖い」と恐れられた安谷屋ライオンズ前監督の棚原清昌さん(右)
この記事を書いた人 Avatar photo 石井 恭子

 【北中城】小児まひで脚の自由が利かず、両手につえで44年間、北中城村の少年野球チーム、安谷屋ライオンズを指導した前監督の棚原清昌さん=享年(77)=が4月15日に亡くなった。同村の城徳寺で同19日に営まれた葬儀には、1971年から2015年までの教え子ら約750人が参列。

 棚原さんが撮りためたチームの写真なども展示され、皆が懐かしい時代に見入った。自身が周囲からもらった支援の恩返しにと、棚原さんは野球だけでなく「感謝」の心を伝えてきた。その思いは教え子や地域の中で生き続ける。

 戦後の1947年1月生まれ。棚原さんは学校に通えず四つんばいで生活していた。57年のある日、地面をはいずって友人と追いかけっこする棚原さんを見かけた、米軍属のフォレスト・ロング氏の勧めで、10歳で単身ハワイに渡航。ロング氏の加入したシュラインクラブという友愛団体から治療費の援助を受けて、曲がっていた脚の手術をした。

 つえで歩けるようになり、13歳で沖縄に戻るとクリスチャンスクールで学び、卒業後は米陸軍病院(現在の海軍病院)で病理検査技師として働いた。23歳から安谷屋ライオンズの監督を務めた。

 復帰前後、地域があまり裕福ではなかった時代に、米陸軍病院で働いた私財を投じてチームの野球用具などをそろえた。およそ半世紀に及んだ少年野球の指導、そして上地流空手道拳優会で鍛錬した空手の腕前も含め、その人生は献身と研さんの日々でもあった。88年度に第11回琉球新報活動賞を受賞している。

 焼香に訪れた安谷屋ライオンズ1期生の島井盛仁さん(65)は「物のない時代で親は生活に必死で、学童みたいに監督に子どもを預けて安心できた。道具なんかないから、監督がお給料から出してくれた」と振り返る。

 左利きだったという棚原さんは打撃練習のボールを投げるたび、反動で地面に転がっていたという。「ユニホームを自ら汚して毎日指導する。すごい監督だった。50年以上たっても、あの頃をとても思い出す」と涙を浮かべた。 

(石井恭子)

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