しっとりした生地の中には甘酸っぱい餡(あん)が隠れている。「すごくおいしいお菓子なのよ」。「琉球酥本舗」社長の高田名珠(めいしゅ)さん(91)は、長年同店の看板商品として多くの人に愛されたお菓子「琉球酥(りゅうきゅうすー)」をいとおしそうに手に取る。創業51年を数える店を15日に閉める。「年だからね」。そう語る顔には少しさみしさがにじむ。
きっかけは「宮廷料理」を描いた作品
琉球菓子との出合いは半世紀以上前。当時那覇市首里にあった県立博物館。宮廷料理を描いた作品に目がとまった。
「どうやったら再現できるんだろう」。頭の中から何日もそのことが離れなかった。県内老舗の菓子店が作っていた既製品を味見し、そこからヒントを得て生地を厚めにしたり、バターの量を増やしたりとアレンジを加えたところ、出来上がったお菓子は「あまりにもおいしくって…」と昨日のように振り返る。
間もなくして、夫の和寿(かずひろ)さんと店を開いた。たくさんの人に親しんでもらおうと琉球王国時代のお菓子を現代風にアレンジして製造、販売した。
バターぜいたくに「材料費は惜しまない」
試行錯誤を重ね、生まれたのがパイ風の衣に餡を包んだ「闘鶏酥(たうちーすー)」だ。当時は高級品だったバターをぜいたくに使い、包装紙も紅型の模様を取り入れた「他にはない」お菓子となった。
その後もナッツをふんだんに用いた月餅や、冬瓜(トウガン)のジャムを包んだ琉球酥など、次々と新しい商品を生み出した。
「いずれは土産品に」との思いから、認知度を高めるため機内食として売り込んだところ、好評となり県内の土産品店にも並ぶようになった。
一方で、当時販売されていた菓子の中でも高額だったため、卸先から「半値で」との交渉を迫られることもあった。ただ、「材料費を惜しまない」という強い信念で、価格は譲らなかった。
家族で協力しながら続けていた店は20年ほどかけて店舗数を増やし、最大4店舗になった。従業員も40人ほどになった。
「お客さんが大事なお金を使って、大事な人にあげるお菓子として買ってくれた。もうけではなく愛される食べ物を追求した結果、今日までやってこられたの」とこれまでの歩みを懐かしむ。
店は閉じるものの、今後は体力が続くかぎり、料理指導に力を入れる。91歳には見えない若々しさとあふれる笑顔。「沖縄を代表するお菓子と自負している」。そう語るそばから、店の引き戸が開き、買い物客が入ってきた。
(與那覇智早)