インタビュー


沖縄と尼崎市との関わりについて話す稲村和美尼崎市長=同市役所

第二の故郷として定着
稲村和美 尼崎市長

 沖縄県人会兵庫県本部は尼崎市に拠点を置き、県下の支部をまとめている。市には沖縄人(ウチナーンチュ)が多く住み、世代を重ねる。稲村和美尼崎市長に市と沖縄の関わりなどを聞いた。

 -尼崎市には沖縄の人が多く住み着いている。

 「工業が盛んだった尼崎市には沖縄だけでなく奄美、中国四国など多くから人が集まり、高度成長を支えた。その方々がこの地に根付いて伝統文化を伝えた。沖縄からもたくさんの方々が来て、尼崎を第二のふるさととして定着した。2世、3世の世代だが、唄や踊り、太鼓などを伝えている。市内の老人会や地域の祭りでエイサーや琉舞をよく見るのはその証拠だ。若い世代は三線を弾く人も多いし、交流も多い」

 -県出身者も活躍している。

 「市立尼崎高校は沖縄出身の羽地靖隆先生がブラスバンド部を指導し、甲子園に出場する沖縄勢を毎回応援している。菓子メーカー、エーデルワイスの創業者の比屋根毅さんも石垣市出身で、この地で多くの菓子職人を育てた。菓子と言えば神戸のイメージが強いが、比屋根さんは尼崎に本社工場を置いている」

 -尼崎市は来年、市制100周年を迎える。市の取り組みと課題は。

 「『知れば知るほど“あまがすき”』をキャッチフレーズに再発見をうたっている。いろんな地域から人が集まった多様性がある。100年を機にあらためて共有したい。高度成長期に急激に働き盛りの人が集まっただけに、早くから人口減と高齢化が進んだ。現在、1人暮らしの高齢者の割合は13%で、国勢調査でみた全国平均9・2%を上回る。お互いさま、おかげさまの精神で取り組んでいきたい。関西のど真ん中にある市として関西の発展を引っ張ってきた。交流人口を増やし、各地との交流を活発化させたい」(聞き手・島洋子)



沖縄県人会兵庫県本部の歴史や課題、今後について話す大城健裕会長

沖縄県人会兵庫県本部会大城健裕

 -沖縄県人会兵庫県本部は結成70年を迎えた。県人会の成り立ちと、役割は。

 「大正時代から出稼ぎの人たちが沖縄から住み着いた。戦後、復員兵や徴用された人が沖縄に帰れず、関西に押し寄せた。県人会の先輩方は、自分の生活もままならない困窮した時代に行き場のない同胞を助けた。沖縄に対しては結核患者を本土の病院に入院させたり、台風被害に義援金を送ったり、復帰運動を支援した。助け合いという『ゆいまーる』ではなく、助けるというのが県人会の原点だ」

 -差別もあったと聞く。

 「全体として貧しく、一般企業への就職も難しかった。商売しても銀行は相手にしないから沖縄人同士、模合して乗り切った。いま、若者は沖縄に憧れるなど人種的な差別はなくなった。しかし沖縄を切り離して27年も米施政権下に置き、いまも基地を置き続ける構造的差別はなくなっていない。『大の虫を生かすために小の虫は殺してもいい』という論理がある」

 -県人会の課題は。

 「若い人を増やし次代の担い手を育てる。兵庫・沖縄友愛キャンプで毎年沖縄に若者を派遣して交流している。最初は海に行きたいと言っていた若者が戦跡やガマをめぐり、沖縄の歴史に触れて理解を深めている。重要な取り組みだ。年寄りを大事にし、入りやすい会にする」
 「沖縄が本土並みになれば県人会はいらない。郷友会でいい。しかし沖縄は決して本土並みになっていない。沖縄問題は全国民の問題だ。兵庫県本部は超党派で活動してきた。これからも沖縄の民意に従う」

 -会長は兵庫県生まれの2世だが、沖縄への思いはどこから来るのか。

 「確かに生まれは兵庫だが、体はウチナーンチュだ。そうとしか言えないね」
(聞き手・島洋子)