講演内容01


講演内容1


第175回琉球フォーラム
演題『均等法と職場環境は今』
講師 松原 亘子氏(21世紀職業財団会長)


 松原でございます。このような立派な伝統と格式のある会合にお招きをいただきまして、誠にありがとうございます。心から光栄に存ずる次第です。
 本日はいろいろな資料をお配りしていますが、そういったものを見ていただきながら一時間ちょっと話を聴いていただければ、幸いに存じます。
 私はご紹介いただきましたように、現在『財団法人 21世紀職業財団』の会長をしております。この財団については、残念ながらご存知ない方がたくさんいらっしゃるのではないかと思い、紹介パンフレットを配らせていただいておりますので、まず財団について少し説明したいと思います。


21年前に財団設立■


 21世紀職業財団は1986年、今から21年前に男女雇用機会均等法がスタートした年に設立された財団です。当時、21年前ですから、雇用の場での男女の機会均等のための法律はできたものの、企業の方のみならず、社会一般にもいったいどういったことを追及するのか、どう取り組めばいいのか明確でないということがありました。企業関係者の方々においても、女性の雇用の実態や女性の就労意識などの情報について十分接することがなかったという実態であったかと思います。そういうことから、民間ベースで、女性労働の実態についての調査研究や情報提供を行うことの必要性が認識され、男女雇用機会均等という法の趣旨を社会に定着させ、それに沿った雇用管理を実現するための、いわば中核的な団体を作ったらどうかということになりまして、産業界、企業、業界団体のご寄付で設立された団体が当財団で、当時の労働省から公益法人としての許可を受けたのでございます。


均等法の趣旨定着が目的■


 当初は、この財団は21世紀職業財団ではなく女性職業財団と称していました。つまり男女雇用機会均等法の趣旨を企業のみならず、社会全体に徹底していくことに加えて、それが求めている企業の中での女性の活躍をサポートするということを中心に仕事を開始しました。ただその後、ご承知と思いますけれども、パートタイム労働者の雇用管理の改善を図るためのパートタイム労働法や、働く男女の育児・介護と仕事との両立を図るための育児介護休業法という法律が制定されました。そこで、私どもの財団は国から指定を受けて、そういった関連の業務を行うこととなり、名称も「21世紀職業財団」に改めた次第です。パートタイム労働者の雇用管理の改善、育児、介護といった家庭責任と仕事との両立、女性労働者の活躍支援もそうですが、それらの実現に向けた企業の取り組みを支援するための仕事を中心に展開してきており、パンフレットの中で簡単にその内容をご紹介しています。


 私どもの財団は国からの予算を受けてやっている部分と、併せて、それだけではなくて、自主的な財源、これは主として企業、団体、個人の方々に私どもの財団の仕事にご理解、ご協力をいただき、賛助会員になっていただいておりますが、その賛助会費で運営している事業があります。なお、賛助会員については、パンフレットの『賛助会員募集』の項をご参照願います。また、有料でやっている事業もあります。本日はそのうちセクシャル・ハラスメント関係事業のチラシを何枚か配っていただきました。セクシャル・ハラスメントは、かなり以前から社会的にも問題になっており、無くしていかなければならないことですが、企業の方々の中には、それを防止する為に、また残念ながら起こってしまったときに、どういう取り組みをやったらいいかということについて十分理解されていない場合があることなどから、研修の機会を提供する、セクシャル・ハラスメントに対する相談窓口を設けて相談を請け負うという仕事を、料金をいただいて展開しています。


 後ほどまたご説明させていただきますが、資料の中に私どもが最近プレスに公表したものが入っています。それはワーク・ライフ・バランス(WLB)企業を診断し認証するという事業を来月11月から開始することをお知らせしているものです。これも国の予算とは関係なく独自の事業として行うものです。


 当財団の仕事は、女性だけが対象というわけではないのですが、企業の中で働く女性の方々がさらに一層活躍していただけるように、その環境をさまざまな面から整える取組をされる企業をサポートすることが、業務の大きな部分を占めています。ぜひこの機会にご理解をいただければ幸いと思いまして、ちょっとお時間をいただき紹介させていただきました。


準備作業から施行まで■


 私の自己紹介は、先ほど社長さんからプロフィールをご説明いただきましたけれども、1964年に労働省に入り、約34年半勤務致しました。労働省で勤務した34年半のうち約3分の1の期間、女性労働問題に関わる部署で働きました。


 3分の1の期間女性労働問題に関わったと申し上げましたが、特に1978年から1987年までの約8年8ヵ月間は男女雇用機会均等法の準備作業から施行まで、一貫して関わりを持ちました。準備作業と言いましても、当時は労働省の中に婦人少年局という局がありましたが、そこに配属になった時には、局内にも男女雇用機会均等実現のための法律をぜひ欲しいという気持ちはあっても、その準備を具体的にする、またそれができるだろうという雰囲気はあまりありませんでした。ですから準備から関ったと申し上げましたが、まず畑をどこにするかという畑を耕す以前のような段階から始まり、そこから畑を耕し、種を撒き、雑草を抜き、花を咲かせ、最初の実を摘むというような過程がありました。これに約8年8ヵ月かかったということです。均等法はある日突然できたというわけではなく、かなり長い間かけて労使の方々の議論を経て結実したものです。


均等法以前■


 本日は、この男女雇用機会均等法を中心に話をさせていただきますが、その前に、今から21年前、均等法施行以前の状況を思い浮かべていただきたいと思います。その当時、企業における女性をめぐる状況はどうだったのでしょうか。


 企業の中には、女性は結婚したり、妊娠したり、出産したりすると辞めなければいけないという規則を定めている企業もありました。また多くの企業に定年制があり、今は60歳定年が一般的ですが、当時は一般的には定年は55歳のところ、企業によっては、男性の定年は55歳でも、女性の定年は50歳とか45歳、なかには40歳という非常に若い定年制を定めている企業もありました。もちろん多くの企業は男女同一の定年年齢でしたが、大手企業でも、男女差のある定年を定めているところもありました。定年や退職制度は、働く人にとっては、それでもう雇用の場がなくなるわけですから、非常に重要な労働の条件です。それなのに、そこにおいて男女に差があるという実態がみられたのです。そこで、そういう制度のために企業を辞めざるをえなかった女性達が「やはり、これはおかしいのではないか。なぜ女性は早く辞めなければいけないのか」ということで随分裁判に持っていかれました。その当時は、まだ男女雇用機会均等法がない時代ですから、行政機関も、今のようにそれに何らかの救いの手を差しのべるということがなかなかできませんでした。従って、彼女達は裁判に訴えました。多くの裁判例があるのですが、そのほとんどが女性達の主張を認め、差別的な退職制や定年制は民法90条の公序良俗に反して違法無効だという判断が続々と出ました。当時は、雇用の場での男女差別を禁止するという具体的法律は、労働基準法で賃金について男女差別を禁止するという規定がありましたけれども、それ以外についてはなく、従って民法が援用されたということです。当時の労働省婦人少年局の出先機関として、全国47都道府県に婦人少年室という組織がありました。現在は地方労働局の中の雇用均等室となっています。そこの室長以下、先ほど申し上げたような退職制や定年制を持っている企業を訪問して「改めて欲しい」と、その時はまだ「お願い」をして回ったわけです。企業によっては「そういうことをやってはいけないんだね」と、すぐ改正されたところも多かったのですが、中には「何の権限があって、あなた方はこういうことを言ってくるのですか」という企業もありました。そういうこともあって、室長達からは「具体的な法的根拠はできないものだろうか」という声も聞こえてきました。


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講演内容1


第174回琉球フォーラム
演題『私の野球人生』
講師 権藤 博氏(野球解説者)


 お呼びいただきましてありがとうございます。毎年キャンプで沖縄に来ておりまして、講演の依頼を受けました時には気楽に引き受けました。その後にこの琉球フォーラムという冊子のメンバーを見てビックリしました。博士から大臣、大統領まで、こんな凄いところで私は話ができるだろうかとずっと2カ月緊張して、原稿も考えるだけで手に付かず、やっと一昨日そこそこ原稿は書いてまいりました。


挑戦の野球人生■


 その中に稲尾(和久)さんのお名前がありまして、彼は私の大先輩で、何しろ「神様、仏さま、稲尾様」と言われる人ですから、これまた私にとっては雲の上の人でございます。


 今日は私の野球人生ということでございますが、私は評論家をやっておりまして、心理面、精神面のことは若干分かりますが、アカデミックな評論はできないと思いますので、お許しいただきたいと思います。ただ46年間野球界に携わってきて、いろいろな経験をしました。その中から私の野球人生を少しずつお話できればと思っております。ちょっと緊張しておりまして、台本も目に入らないぐらいです。


 思えば、私の野球人生は『挑戦』の一言でした。高校2年まで内野手をやっていましたが、3年の時にピッチャーに転向しました。訳の分からないような鳥栖高校のピッチャーでしたが、当時の西鉄ライオンズから誘いが来まして、テストで行きました。そこで何となく採用するみたいなことを言われましたので「俺もこんなに凄いのか」と思いました。


人間は環境で変わる■


 人間は環境によって変わるとよく言いますが、それまで私は学校の2年生相手にフリーバッティングで投げてもみんなカンカン打つわけです。私は西鉄の練習に行って、西鉄に採用すると言われた途端に、その後投げたら下級生はボールにかすらなくなりました。これはもう少し早く、甲子園の県予選が始まる前に西鉄が採ると言ってくれたら、ひょっとしたら甲子園に行けたのかも知れないと思いました。それぐらい人間というのは、ちょっとした環境によって、パッと力が出ます。


 私はいつも選手を見る時には、スカウトももちろん見ますが、一番分からないのは環境に対する順応性があるかないか、これだけはやってみなければ分かりません。これはもうその時に一番に感じました。彼はいいピッチャーだなと思っても、入ってきて全然活躍しない者は、環境に順応の仕方ができないか悪いかです。プロに入ってすぐ練習を怠るわけはないのですから、感性と言いますか天性といいますか、環境への順応性というのをその時に初めて感じました。


 思えば挑戦の連続でありました。今は72Kgありますが、当時高校3年生の頃は65Kgぐらいしかなく、ちょっと体が細かったです。そこでブリヂストンという会社のテストがありまして、「どうせ俺は西鉄に行くから」と軽い気持ちで受けたら、誰もかすらなくて入社OKということになりました。まだ体力もないしと思い、ブリヂストンを選びました。


 そこでもうひとつの刺激は、私の1年先輩で稲尾さんの同級生がいらしたのです。その人と福岡で「昨日、和さんと飯を食ってきた。こんな大きな血のしたたるようなステーキを食った。そしたら和さんがポケットから千円札をこげん持っててね」と聞かされました。私達は千円札持っていることもないですから「へぇ~」と思いました。あの頃は牛乳が10円、パンも10円、バスも10円の時代でした。これは頑張ってプロを目指したいと思いました。


 それがきっかけで吉川英治の宮本武蔵という小説本を読みました。高山伊織という弟子が芥子の花を毎日跳んでいると、芥子の花が自分の背丈以上に成長しても、それでも跳ぶということが書かれていました。


 それで、よし今日は100mダッシュを1本、明日は2本、その次の日は3本と、腹筋も今日は1回、明日は2回とずっと続けました。吉川英治作の宮本武蔵のあの一行、妙なところに感動したのです。


 私も高校の頃にバネはあったので、三段跳びでも12mの砂場の中に入れましたし、高跳びも素足で1m70ぐらいは跳べました。とにかく走るのは遅くて、体育祭なども出るのはいつもパン喰い競争やムカデ競争などにしか出ませんでした。まっすぐ走ったら運動部でない奴等にも負けるのですから…。ところがブリヂストンで4年、こういう練習を自分でやったおかげで凄く早くなりました。


遅かった足が速くなる■


 これは後々の話ですが、プロに入って私が30勝を超えた1961年の時、1964年が東京オリンピックの年ですので、その時に三段跳びの織田幹雄さんという方が「権藤を400mに出したらメダルが取れる」というぐらい私の足を誉めてくれました。尾ひれが付いてメダルなどとんでもない話ですが、同級生が「いいかげんなことを、権さんみたいこげん遅かったもんが、何がオリンピックじゃ」と「いや、俺速くなったって」「嘘っ!」って言われ、それぐらい足は速くなりました。人間努力すれば何とかなると思いました。


 そうやっている間に、中日、西鉄、巨人から誘いがありまして、私は中日に入団するわけです。当時の監督は濃人渉さんという人でした。昔の監督というのは皆さん戦争体験者でした。当時はプロ野球選手でも、いつ赤紙(召集令状)が来て戦争に呼ばれるか分かりません。ですから野球はもの凄く楽しくて、肩が痛い足が痛くても野球がやれれば最高という時代でした。赤紙が来たら終りという気持ちで野球をやっている人達だったので、戦争から無事帰って来られて監督をやられている人でした。ですから無茶苦茶の連投。肘が痛いとか肩が痛いなどと言ったら、「たるんどる」の一言です。トレーナーが「いや、権藤君あまり無理させたらダメですよ」と言ったら「すぐお前は権藤を甘やかす」と、全然問題にはしてくれない時代でした。だから35勝、30勝もできたと思います。


 しかし私は、それで潰れたとは思っておりません。プロに入る時に投げて潰れるのなら本望だと思っていました。また、これぐらい投げたぐらいで潰れるとは思わなかったのですが潰れてしまいました。


2人の権藤■


 所詮、稲尾さんと私ではガタイ(図体)が違います。向こうはサイちゃんと言われるぐらい、サイのように丈夫です。あんな動物のような体の人と、私みたいな華奢な者とは、所詮違いますから。でもやるだけやりましたので、悔いはありません。
 あの苦しみはいい勉強になりました。私は自分の中には二人の権藤がいると思っています。一人はブリヂストンで4年間、自分で頑張ってプロに入って、あれだけパッと咲いた権藤と、もう一人は肩を痛めて本当にきつくて、もの凄い辛い思いをし、他人の痛みが分かるようになった権藤です。その中で第2の権藤が生まれたのは、どこかでハッとする瞬間、ハット思わせてくれる人に出会ったことです。


 最初にハッとした瞬間に会ったのは、私が2軍のコーチをやっている頃で、現役を退いてすぐでしたから私が35歳の頃です。ですから2軍の選手より動けるし、投げるのもそこそこ投げることができました。ただ140kmを超えるようなまっすぐなボールが投げられないだけで、まだまだ2軍の選手よりも上手ですから「お前達はこんなこともできないのか!バカタレが!見ておけ」と言って、口が先に出ます。


 ところが1975年、今から32年ぐらい前ですがワールドシリーズを観に行きました。確かにワールドシリーズはすごかったんですが、その帰りにフロリダで教育リーグというのを見てきました。


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