東京での激励に感激 復帰前の研修で金城さん


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<復帰42年>復帰前、研修先から贈られた寄せ書き入りの日の丸旗を大事にしている元琉球政府職員の金城秀雄さん=13日、那覇市内

 沖縄の日本復帰から42年がたった。復帰前、東京での研修中に多くの人から日の丸に激励のメッセージを受けた男性。かつての「アメリカ世(ゆー)」を経験した世代は、それぞれ思いを胸に抱きながら、5月15日を迎えている。

 日本復帰前、コザ市の沖縄少年院の矯正職員だった金城秀雄さん(84)=那覇市=は1971年、研修に出向いていた東京都八王子市の多摩少年院の職員から10カ月の研修が終了する際、日の丸旗を贈られた。旗には復帰を控えた沖縄に帰る金城さんを激励する職員の寄せ書きであふれていた。「復帰の早からん事を」「守礼の国の君を思はん」などと書かれた旗を43年間、大切に保管してきた。自室の壁に張られ、少し色あせた旗を眺めながら、金城さんは「日本復帰を前にした沖縄への激励はびっくりするくらいだった。別に政治的なもんじゃないけど大事なものだね」と話し、感謝の気持ちを忘れない。
 国内初の矯正院(少年院)として23年に発足した多摩少年院の先進的な取り組みを学ぼうと、復帰前の数年間、琉球政府の矯正職員が研修に出向いていた。当時の沖縄少年院は「小さい子から大きい子まで、施設が足りないからごっちゃになって、更生の道どころではなかった」と振り返る。
 10カ月の研修期間中、親しく交流した職員らは「沖縄は相当苦労したんだから頑張るんだよ」「(復帰しても)安心しろ、心配するな」と激励してくれたという。「佐々木隆院長をはじめ、当時の職員はもう85歳から90歳にはなる。もういない人が多いと思うが、誰か元気にしているかな」
 41年、南洋ポナペ島に移民した父母きょうだい6人は無事だったが、サイパンの実業学校から学徒召集された兄秀正さん=享年(18)、高齢のため自宅のある首里に残った祖母ウトさんは戦死した。金城さんも兄と同じ学校に進学予定だったが、船は来ず、結果的に命拾いした。戦争が家族の命運を分けた。
 戦後は軍作業員としてパン屋、トラック運転手、何でもやった。「アメリカさん(米施政権下)の27年間、異民族支配されて、やっぱし、どうしても日本人として(復帰は)必要でしたよ」。5月15日が巡るたび、この旗を眺めては、多摩少年院の仲間たちに思いをはせる。