基地負担 説明訴え 国の安保議論を疑問視


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戦死した兄、大舛松市さんの写真を手にする大舛重盛さん。手前左は当時の新聞のスクラップ、同右は大舛慰霊祭に寄せられた弔辞の束=28日午後、浦添市

 「集団的自衛権を議論する前に、日本政府はやるべきことがあるのではないか」。兄をガダルカナル島の戦闘で失い、ひめゆり学徒隊だった姉を沖縄戦で亡くした元県警刑事部長、大舛重盛さん(84)=浦添市=は、集団的自衛権行使の容認が閣議決定される1日を前に日本政府の不作為を指摘した。

「抽象的な自衛権の議論を繰り返す前に、なぜ今、また沖縄に新しい基地を造ろうととしているのか、その説明が先ではないか。具体的な説明がない」と疑問視した。
 重盛さんの兄、松市さんは与那国島に生まれ、県立第一中学、陸軍士官学校を経て、1942年、激戦地のガダルカナル島に着任した。43年1月に戦死。同年10月に、軍人最高の栄誉である「個人感状」が授与された後、新聞が大々的に報じ、「軍神、大舛大尉に続け」と戦意高揚に使われた。
 当時、重盛さんが通っていた一中にも新聞記者が殺到し、校長室で取材を受けた。「一生懸命頑張りますなどと話したが、兄が亡くなって残念という、家族としての言葉を言える雰囲気ではなかった」と振り返る。「当時は批判や戦意高揚にブレーキをかけることもできない。怖いものだ」と話す。
 44年7月、那覇市で知事らが参加して県葬「大舛慰霊祭」が開催され、父母ら家族5人が出席、遺骨を受け取った。那覇市安里の沖縄師範学校女子部の予科に通っていた2歳年上の姉、清子さんは、遺骨とともに与那国島に帰郷。戦況が悪化して学校に帰るか悩んだが、那覇に戻り、翌45年3月、ひめゆり学徒隊として動員され、同年6月の解散命令後に死亡した。
 重盛さんは担任教師の強い勧めで44年9月に台湾へ疎開し、命をつないだ。
 集団的自衛権の議論が進む中、重盛さんは「兄と姉を失った遺族として、戦争は絶対にあってはならない」と話す。
 「国土に入ってきた敵を断固排除するための議論は必要だ。しかし、『米軍艦船を守るため』と言って、遠く外に出て戦争をするようなことは絶対に駄目だ」
 国の安全保障をめぐり、集団的自衛権の議論の前になされるべきなのは、なぜ沖縄に基地を置き続け、さらに新しく造る必要があるのか、政府が明らかにすることだと考えている。
 「政府はどこまで本気で基地の負担軽減、県外移設を模索したのか。県も政府とどのように折衝してきたのか。まず、その経緯を明らかにするべきだ」
 基地がなければ、戦争はできない。県民の多くが反対する中、戦後70年近く基地が残され、名護市辺野古では新たな基地を造ろうとしている。「政府や県がどのように努力しているのか、伝わってこない」
 重盛さんは「本土のマスコミの関心は薄いが、日本全体の問題として、いま沖縄の基地問題を論じるべきだ」と感じている。(安田衛)