<未来に伝える沖縄戦>空襲激化 山間部に避難 上原好子さん(79)上


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八重山戦争マラリアの悲劇を語る上原好子さん(左)の話を聞く山田昇太君(右)と祖納大樹君=13日、石垣市新栄町の八重山平和祈念館

 石垣島では1945年初めから空襲が激しくなり、一般住民は軍の命令でマラリアの有病地である山間部への避難を強いられました。住民は相次いでマラリアにかかり、多くの人が命を落としました。於茂登岳南麓の白水山中に強制疎開させられた当時10歳の上原好子さん(79)は、一緒に避難した家族5人全員がマラリアにかかりました。八重山高校1年の山田昇太君(15)、石垣市立大浜中学校1年の祖納大樹君(12)が話を聞きました。

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 41年の真珠湾攻撃から始まった戦争は当初、負けるはずがないとみんなが信じ込んでいたが、3年後の44年ごろから石垣島でも米軍の進攻が感じられるようになり、台湾などへの疎開が始まった。
 初めて空襲を見たのは44年10月だった。平得海軍飛行場に米軍機が飛来した。日本の演習と思って眺めていたら、戦闘機が木の葉返しのように飛び回り空襲が始まった。日本兵が米軍の戦闘機と教えてくれた。みんな「隠れろ」と怒鳴っていた。急いで防空壕の中に飛び込んだ。
 私は弟の栄能の子守を任され、学校に行かない日が多くなっていた。2回目の空襲は測候所を狙っていたようで、近くに住んでいた私たち家族はみんなぶるぶる震えながらじっと身を潜めた。近くの家には爆弾も落ちた。それから毎日のように空襲があった。空はまるでツバメの群れのように戦闘機が飛んでいた。
 姉と一緒に田原の畑に行った時に、途中で米軍機の銃撃に遭った。2人で道端のたこつぼ(兵士が身を隠す縦穴)に入って助かった日もあった。

 《45年4月ごろから空襲は激しさを増し、米軍の上陸が間近と判断した軍は迎撃態勢を整えるとともに、住民に山間部への避難命令を通達しました。住民の避難が始まりました》

 45年3月末ごろか4月初旬ごろだったと思う。兵隊さんのような人が来て、6月10日ごろまでには白水の山へ避難するよう母に命じていたようだった。
 母は弟をおんぶして食糧袋を頭に乗せ、兄が鍋などの家財道具を運んだ。夜に出発し、集落の人たちと避難した。川良山を過ぎ、少し明るくなったころ、米軍の飛行機がたくさん飛んできた。ものすごい銃撃に遭った。前方で何人かが「やられた」という叫び声を上げた。道を歩いているから防空壕もない。木の根っこに隠れたり、たこつぼに隠れたり、身を小さくしてうずくまるのがやっとだった。がくがく震えながら歩いてやっと白水の入り口にたどり着いた。

※続きは9月28日付紙面をご覧ください。