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《石垣島では集落ごとで白水、武名田原、仲水など山間部への避難命令が出されました。山の中はマラリアの有病地だったため、マラリアが爆発的に広がりました。上原好子さん(79)家族5人は白水山中に避難していましたが、家族全員の栄養失調が目立ち始めたため、石垣島の西海岸側にあるフーネー原の避難所に移動しました》
2番目の避難所は名蔵大橋から北へ進んだ場所にあり、近くの田んぼで兄が空襲の合間に米を植えていた。おかげで久しぶりに米を食べることができた。避難小屋は戦前からあった田んぼ小屋を防衛隊から時間をもらった父と兄が改築したもので、白水の共同避難小屋と比べると少しはましだった。
近くにあった兵舎から兵隊が時々食料を求めに来た。兵隊は痩せこけていた。米をあげるとお返しにマラリアの薬のアテプリンや岩塩をもらった。
ある日、空襲がなくなった。アメリカが負け、戦争が終わったと周囲は言っていた。しかし、兵隊から日本が負け、8月15日で戦争は終わったと知らされた。
《沖縄本島は地上戦で多くの人が亡くなりました。石垣島の地上戦はありませんでしたが、食料や薬品の不足で山間部への避難中に感染したマラリアにより、終戦後も犠牲になる住民が相次ぎました》
戦争が終わって4~5日後、悪性マラリアにかかっていた弟が死んだ。前日、私は弟をおんぶして歩いていた時、兵隊がボンタンアメを1個ずつくれた。途中、弟がそれを落とした。弟は眠っているようだった。私はすぐに拾って弟のも食べてしまった。
マラリアがひどくなっていることに気付かなかった。弟はボンタンアメを食べていたら元気になっていたかもしれない。そのことは親にも言えなかった。今も苦しんでいる。
※続きは9月28日付紙面をご覧ください。