復帰前、家計支えた足踏みミシン 棚原さん、35年営業


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復帰前の旧式ミシンを展示する棚原弘明さん=2日、那覇市安里

 「復帰前は女性たちの嫁入り道具としてよく売れた」。光沢のある黒いミシンが今も店頭に展示されている。1972年5月15日の日本復帰前、収入が高かった米兵が新しい洋服を買い求めるなどしたため、女性たちはこぞってミシンを購入。洋服を仕立て家計を助けたという。

女性たちの「商売道具」として重宝された足踏みミシンが今、骨董(こっとう)品のように店内を飾っている。
 那覇市安里の崇元寺通りで、ミシンの販売・修理店「中屋総合ミシン店」を営む棚原弘明さん(74)。戦後すぐに創業した中屋貿易に1960年に入社し、ミシン部門で販売や修理を担当した。35年前に独立し、営業を続ける。
 復帰前は米国製シンガー社、日本製リッカー社や福助株式会社の足踏みミシンを数多く販売した。「初任給が30ドルの時代にミシンは1台75ドル。月給2カ月分と高価だったが『仕事に使う』と主婦の方が買いに来てくれた」と振り返る。
 米軍政権下、米兵の収入は高く、県民との収入格差は10倍ほど。コザ市(現沖縄市)照屋などではテーラー(仕立屋)の看板を掲げた店が軒を連ね、米兵向けの背広などを販売していた。那覇市では公設市場で婦人服や子ども服が販売されたほか、一部は国外にも輸出していた。「主婦らが衣料店から受注し、自分のミシンで仕立てた物も多かった」(棚原さん)。
 電子部品が多用される現在のミシンは、故障すると修理が難しい。だが旧式のミシンは定期的な点検や油を差すことで半永久的に使える。ミシンの処分に困った人が店に来ることがあった。戦後、家庭を守るため内職する主婦の必需品だったミシンが沖縄経済を陰で支えたといえる。「お母さんが大切にされていたものなので、保管してはいかがですか」。棚原さんが話し掛けると、たいていの人は納得して持ち帰るという。
 現在は大型衣料品店で購入する方が自前の服を作るより安く、ミシンはなかなか売れない。「ミシンで母親が作った服を子どもたちが着られない時代に寂しさも感じるが、昔から店に来てくれる人もいる。できるまで頑張りたい」と笑顔を浮かべた。(松堂秀樹)