【キラリ大地で】アメリカ/照屋 勝子さん 「箏」に平和の願い込め


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 「軽い気持ちで始めたので最初は大変。できないと思った曲が演奏できた時のうれしさは今でもはっきり覚えています」
 高校を卒業して当時創設されたばかりの沖縄銀行に就職したころ、戦争でかなえることができなかったという母から夢を託され、1957年に琉球箏曲興陽会に入門した。

 社会人生活を謳歌(おうか)する友達をうらやましく思いながら、厳しい師匠の下へけいこに通った。
 「父は戦争に出兵していたので、1人で7人の子供を育てる母の姿をずっと見てきた。厳しいけいこに耐えられたのは、母を喜ばせてあげたいという一心だった」
 母のためにと思って続けてきた箏だったが、いつしかその魅力にのめり込み、自分の一生の仕事にしようと決意した。
 沖縄系2世の男性との結婚で61年、ハワイへ移住。65年に教師免状、68年に師範免状を取得し、自身の教室を開設した。86年まで琉球箏曲興陽会ハワイ支部長を務め、2人の娘にも恵まれたが離婚した。
 7年前に移住したロサンゼルスのガーデナ市で研究所を開設した。現在の生徒数は約40人。これまでに2人の教師を輩出したほか、文化活動の功績が認められ、2001年にダーフィー芸術基金から指導者育成助成金を授与され、同年2月には、ゲティー博物館の招聘(しょうへい)で、「沖縄芸術の夕べ」を2日間にわたって公演した。
 今年初めに北米沖縄人会の芸能部第9代部長に就任し、5月に行われた20周年記念祝賀会を成功に導くなど、精力的な活動を展開している。
 「教える上での信条は、いいところを見つけて褒めて才能を伸ばす」と話す照屋さん。「生涯青春。人を指導することで自分も磨かれる。子どもたちの笑顔が活力の源です」とさわやか笑顔を見せる。
 「沖縄での生活で忘れられないのは、10月10日の大空襲。5歳だった私は、母と一緒に幼い弟や妹の手を引き、雨のように降ってくる弾丸の嵐の中を逃げ惑った。サトウキビ畑を襲う機銃掃射、防空ずきん、まぶしい太陽の光。今でも夢に見る」
 米兵がイラクで戦死するニュースが続く中、けいこに励む若い3世たちを眺めながら、平和の尊さを静かに思う。
 「戦争で琴ができなかった母と平和な時代に生まれたからそれができた私。古典芸能には、平和への願いも反映されている。私の使命は、アメリカで若い人たちを育て、古典芸能で沖縄とアメリカのウチナーンチュの心をつなぐこと。そうすれば平和への思いも自然とつながっていく」
 (平安名純代通信員)