【ロサンゼルス】評伝、ロスで翻訳業し活躍 新島多嘉夫さん死去


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 ロサンゼルスで26年以上にわたり翻訳業で活躍した新島多嘉夫さんが昨年10月13日に死去した。66歳。県人会ニュースレターの出版やホームページの更新に、妻のナンシーさんとともに貢献した。
 多嘉夫さんは1941年、医師の父・新島盛夫さんと料理家の母・新島正子さんの長男として満州で出生。当時隣家でアナウンサーをしていた森繁久弥さんが「高穂」と命名したが、字画が悪いと現在の名にしたエピソードを持つ。戦後は大阪に引き揚げ、父が病院を開院。小、中、高校時代を大阪で過ごした。
 盛夫さんはペニシリン・ショックで49歳で他界。母・正子さんは家族で沖縄に引き揚げ新島料理学院(現・沖縄調理師専門学校)を開校した。同年、多嘉夫さんは高校3年生で那覇高校へ転校。翌年、大阪大学医学部に入学、後に哲学部へ転部した。修士課程修了後、大阪大哲学部講師になった。その後、交換教授としてUCLAで博士課程に学び、1981年、新島翻訳事務所を設立し、昨年までビジネスを継続した。
 妻のナンシーさん(65)の父は島袋文一さん。島袋さんは、戦後初の沖縄からの米国留学生で琉大の創立者メンバーの一人。後になってもとの名の新川に変更した。旧姓は新川乃婦。新島多嘉夫・乃婦夫妻の結婚式は1966年で、当時、琉球政府行政主席だった屋良朝苗・よし子夫妻が仲人、琉大仲宗根政善教授が乾杯を。終戦前後の沖縄の恵まれた特殊な家庭の一例として歴史の中に明記されるであろう。
 (当銘貞夫通信員)