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まんがで伝える沖縄戦 海に眠る子どもたち(後編)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

当時19歳の新米教師・ミツコが生徒を連れて乗った「対馬丸」は米軍の魚雷攻撃を受け沈没。運良く鹿児島の港へたたどりつきましたが、どこを探しても自分の生徒の姿はありませんでした。

(前編)はこちら
https://ryukyushimpo.jp/style/article/entry-1273163.html

R1…かん口令

沖縄の子どもたちの「集団疎開」が進められていた頃、米軍は沖縄の周辺海域で強い支配力を持っていました(制海権といいます)。危険を承知で対馬丸は出港し、米潜水艦に沈められたのです。対馬丸の沈没は軍事的な機密となり、生き残った人々は対馬丸が沈んだことを話さないよう軍や警察から命じられました(かん口令)。沖縄に残った家族にも事実を知らせませんでした。しかし、疎開地に着いたはずの子から便りがないため、沈没のことが徐々に広まっていきます。対馬丸撃沈事件が広く知られるようになったのは戦後のことです。

R2…対馬丸記念館

対馬丸に乗って犠牲となった人たちの鎮魂と、子どもたちに平和と命の尊さを教え、対馬丸の悲劇を正しく後世へ伝えるため、2004年、那覇市若狭に開館した施設です。ミツコさんを含むたくさんの証言も集められています。記念館のそばにある旭ヶ丘公園には対馬丸の犠牲者を追悼する「小桜の塔」(1954年建立)もあります。