全身麻酔の手術6回、「死」の先に見えたもの
―「元落ちこぼれの個性派法務教官」として沖縄少年院で日々、子どもたちと向き合っている武藤さんには、2015年7月~12月まで琉球新報のコラム「南風」を執筆していただきました。そのさなかの8月、鹿児島県の屋久島での登山中、滑落事故に遭い、102日間の入院生活をされました。
「登山についてはそれなりのキャリアがあったのですが、その日は、単独で沢登りをしている時にうっかり足を滑らせ、川に転落して100メートルほど流されました。すぐ先には落差30メートルの滝。『落ちたら間違いなく死ぬ』。とっさに体をひねって、巨岩に体を激突させました。ようやく止まったとき、下半身は全く動きませんでしたが、上半身は動かせたので携帯を取り出した。初めは電波が入らなかったが、5分後にかろうじて電波が入ったので救急に電話しました。鹿児島県の枕崎から救命ヘリが飛んでくるまでの1時間、一歩も動けず水の中にいました」
―話を聞いただけで足がすくみます。そのときの感覚や感情はどんなものだったんでしょうか。
「不思議と恐怖はありませんでした。人が死ぬときは、あっけないなと。ところが、運良く命拾いした。もうろうとする意識の中で『生き残った自分は、何をやるべきなのか』と考えていました。そのときはっきりと浮かんだのは、僕の帰りを待つ少年院の子どもたちの顔でした」
―しばらくは下半身が動けない状態だったと伺いました。
「左足と骨盤を骨折、直腸が破れ、尿道は断裂、腹膜に膿がたまって敗血症を起こしかけていることが分かりました。それで、ICUに緊急入院。全身麻酔の手術は計6回。医師に『死ななかったのが不思議だ』と言われました。入院当初は全治1年と言われていたけど、死に物狂いでリハビリして102日で退院し、その1カ月後には少年院に復職しました」
強さと、弱さと、優しさと…
―入院生活のことを聞かせてください。
「入院して良かったのは、体が弱い人間の気持ちを初めて理解できたことです。考えてみれば、38歳まで大きなけがも病気もしたことがなかった。そんな僕が1か月間ベッドから動けず、当たり前にできていたことができなくなり、完全に自由が奪わた。そのおかげで、身体的なハンデを抱える子どもの苦しみを分かってあげられるようになったと思います」
「身の回りの世話を全てしてもらわなければ何もできない自分にショックを感じましたが、同時に人の優しさも知りました。僕はずっと、強くなきゃいけないと思っていたし、実際に強かったと思う。でも、何もできなくなった僕を、医師も看護師も理学療法士も、毎日毎日支えてくれた。弱いゆえに気付く優しさもあるんだなと。病院を抜け出して、車いすで桜島に遊びに行ったことも懐かしい想い出です。車いすだと、どこに行っても助けてもらえるんです。みんな優しいな、この国っていいな、とあらためて思いました。入院中に友達がたくさんでき、その方から講演の依頼が来たので、松葉杖で外出して、鹿児島市内で登壇したこともありました。病院の先生方には内緒ですけどね(笑)」
―手術を繰り返し、苦しいリハビリを続けながらも、『コラムは続けたい』と書き続けてくださいました。衝撃を受けました。
「僕は普段から、子どもたちに『あきらめるな』『挑戦する勇気を甦らせろ』と伝えています。だから、下りるという選択肢はなかった。それに、あのコラムは、少年院の子どもたちが毎回楽しみに読んでくれていたんです。仕事に行けなくても、新聞の記事で僕の思いを届けることはできる。そう考えると投げ出せなかった。僕の背中の後ろには、いつも少年院の子どもたちがいます。だから僕は逃げません」
(聞き手・佐藤ひろこ)
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【プロフィル】
武藤杜夫(むとう・もりお) 法務省沖縄少年院法務教官。1977年9月6日、東京都生まれ。中学生時代から非行が始まり、問題行動が深刻化。ボクシングジムに入り浸り、学校をボイコットしていたため、成績は3年間オール1。「落ちこぼれ」の烙印を押される。その後は、ヒッチハイクで全国を放浪するなど放浪児同然の生活を送っていたが、教育者としての使命に目覚めると、一転、独学による猛勉強を開始。一発合格で法務省に採用される。現在は、非行少年の矯正施設である少年院に、法務教官として勤務。元落ちこぼれの個性派教官として絶大な人気を誇り、独自の教育スタイルで多くの少年を更生に導いている。また、公務のかたわら、講演活動、執筆活動などにも精力的に取り組んでおり、その活躍の場は行政の枠を超えて広がっている。