大空にロマンを求めた謎の鳥人! マブイロードを歩くVol.3


大空にロマンを求めた謎の鳥人! マブイロードを歩くVol.3
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 南風原町にはライト兄弟よりも100年以上前に空を飛んだとされる「飛び安里」の話が伝わっています。

 はたして本当に飛んだのか? その伝承の成り立ちを追ってみました。
 

 

 10月21日の放送では龍神ガナシーが颯爽と登場し、得意技のドラゴンメーゴーサーを炸裂させました。これにはマジムン軍団のみならず、琉神マブヤーまでもが驚いていましたね。

 ところで今回ハブデービルが並々ならぬ意欲を燃やして挑んでいたのは空飛ぶマジムンウイング。どう見てもお粗末な造りで上手くいきませんでしたが、完成のあかつきにはマジムンエアラインを起業すると宣言しました。

 ハブデービルのような言動は端から見れば、ただの奇人変人に思えますが、本人はいたって本気。発明家というのは洋の東西を問わず途方もない夢想家なのかもしれません。
 

伝説を知らしめた航空ショー

 さて、沖縄の鳥人といえば「飛び安里」が有名ですが、伝承には諸説あっていずれも確証がありません。
 

役場近くの丘には飛び安里の飛行機の壁画もある

 世に知られるようになったのは1915年(大正4年)5月29日、当時の琉球新報が「百年前の飛行家」と題した記事を掲載したのがきっかけとされています。それによると、18世紀後半、首里鳥堀に安里某という煙火師(ひはなじ)(花火師)がいて、国王の前で見事な仕掛け花火を打ち上げて人びとを驚嘆させたそうです。危険な火薬を自在に扱えた彼は当時としては最先端の科学知識の持ち主だったのでしょう。

 やがて安里は飛行機の発明に熱中し、ついに安里式飛行機を製造します。「飛び安里」と称された由縁です。しかし飛ぶまでに至らず死んでしまったといいます。記事の中では設計書は越来(ごえく)の子孫の家にあるようだと記載されていますが真偽のほどは不明です。

 興味深いのはこの記事が報じられた5日後に、県内初の飛行大会が那覇の潟原(かたばる)(現在の泊ふ頭から前島付近にあった塩田)で開催されたことです。当時の新聞には連日飛行機特集が組まれ、イベントに便乗した商店の広告も大々的に掲載されました。どうやらこの時期、沖縄は空前の飛行機ブームに湧いていたようです。

 当日は大勢の観衆が集まり、会場周辺の飲食店や宿は大繁盛しましたが、肝心の飛行機は墜落し、けが人も出る始末でした。

 でも、この飛行大会を契機に人々の関心は飛び安里にも波及し、鳥人伝説は県内各地に知られるようになったといわれています。

誰がどこで飛んだ?

想像図をもとに復元された羽ばたき機のレプリカ前でポーズをとる宮城課長。実物の2分の1サイズ(南風原町役場1階)

 それから9年後、沖縄出身の宮里良保(よしやす)が『科学画報』(大正13年5月)に飛び安里を紹介。航空研究者や技術者たちの心を惹きつけ、本土でも知られるようになります。

 しかし、飛び安里は誰なのか? いつ、どこで飛んだのか? 残念ながらその謎は何ひとつ解明されていないのが実情です。

 飛び安里研究会共同代表の島袋宗一(そういち)(73)氏は次のように語ります。

「飛び安里が伝えているのは新しい物を作りたいという科学への探究心だと思います。失敗しても決して諦めない。想像の翼を自由に広げることが大切ですね」

 楽しみながら学び、遊び心を忘れない精神こそが未来を切り開く原動力。大空にロマンを求めた沖縄の鳥人伝説は私たちにそう教えてくれている気がします。

文・仲村清司
写真・武安弘毅

翼は3メートル。
でーじ、迫力あるやっさ~!

     

「金城哲夫資料館」

 1960年代後半に本格特撮テレビ番組の脚本家として活躍し、日本全国に怪獣ブームを巻き起こした金城哲夫(きんじょうてつお)。彼もまた南風原町が生んだ「科学のひと」でした。
 

資料館にある金城哲夫の肖像写真

 同町津嘉山にある生家、料亭『松風苑(しょうふうえん)』には金城哲夫が執筆した貴重な台本や資料が展示されています。

 上京前に制作した映画「吉屋ツル物語」、帰沖後に手がけたラジオドラマや沖縄芝居の脚本なども紹介され、金城哲夫の郷土に対する深い想いが伝わります。

 資料館は和風様式の美しさと南国のエキゾチックな印象をあわせもつ庭園の奥にひっそりと佇み、「訪れてみたい日本のアニメの聖地88(2018年度版)」にも選ばれました。

 見学は正午より午後5時。要予約。問い合わせは料亭松風苑。●電話098-889-3471