糸満人はエイトマンだった? マブイロードを歩くVol.9

  • 南部
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 なんだこのタイトルは? ふざけているんじゃないか! とのお叱りを覚悟で、あえて引用させていただきました。

 今回はあの国民的歴史小説家を巻き込んだ糸満の地名の由来にまつわるお話です。
 

 

 師走に入り、街ではクリスマスのイルミネーションが華やかな季節を迎えましたね。

 沖縄も冷え込む日が多くなりましたが、こと琉神マブヤーに至っては、ますますヒートアップした展開になっています。

 昨日の放送では約1400通の応募から選ばれた海モンスター『アバサンシン』が初登場しました。

 「俺の願いはただひとつ。海への感謝を忘れないこと。ミーカガンが曇ってしまえば漁が難しくなるように、海が汚れ、人間の心がくもってしまえば、沖縄のすべてがダメになってしまう」というセリフを残したアバサンシン。

 これからもますます目が離せません。
 


糸満はなぜイトマンなのか?


ドンドンガマ。「海ヤカラー」というラブストーリーの舞台にもなっている。

『街道をゆく─沖縄・先島への道』(司馬遼太郎著・朝日文庫・1978年刊)のなかに以下の一節が記載されています。

「糸満はね、イーストマンという漂流英国人の子孫だという説もありますぜ」

 糸満を訪れた司馬氏に地元の人が語ったもので、「イーストマン」が転じて「イトマン」になったというのです。それによると──、昔、難破した英国船の漂流民がこの地に住み着いた。それが8人の男だったから、「エイトマン」と呼ばれ、そのうち「「エトマン」に変化し、現在のイトマンになった──。

 番組のなかでも地名の由来について、同様のやりとりがありましたが、同地ではよほどこの説が根強く語り継がれてきたことの証といえるでしょう。

 実は糸満の由来には諸説あります。

白銀(はくぎん)堂前に勢理井戸(シリンカー)という古い井戸があり、井戸を掘った際に大きなカニが糸と繭(まゆ)をくわえて出てきたのでイトマンとなった

イユ・トゥイ・アマミ(魚捕海人部(いをとりあまべ)がイチュマンになまった

沖縄学の父・伊波普猷(いはふゆう)が唱えた説で、「イト=岬」、」「マン=干瀬(ひし)」(リーフのこと)を意味することからイトマンになった──

 など、いずれの説も確証はありません。

ガマは漂流英国民の墓?

『街道をゆく』にはもうひとつ興味深い話が紹介されています。司馬氏は例の案内人から、「イーストマン氏の墓もある」と聞かされたというのです。

 この墓とはおそらくタケルが課長に報告した8人の漂流民が身を隠したという「ドンドンガマ」のことでしょう。

 英国の首都ロンドンが「ドンドン」になまったとしたいのでしょうが、ちょっと無理があるような……。司馬氏もこの説について、


ミーカガンをつけてはしゃぐハブデービル。実は彼はカナヅチだった

「要するに、物好きが、糸満という語源がわかりかねるまま、考えあぐねてふとそういう伝説を創作してみたらしい」

 と一蹴しています。

 むろん、この説は現在では否定されていますが、当時の糸満人は海の男のイメージが強い英国人と結びつけたかったのかどうか。

 ダジャレもここまで壮大になると興(きょう)が湧く、というものですね。
 


文・仲村清司
写真・武安弘毅

海の男にはほど遠いぜ、マジムンめ!




     


世紀の大発明!ミーカガン

 日本はもとより遙か南洋までその名をとどろかせていた糸満漁師の技術の高さは折り紙つきでした。


 なかでも1884年(明治17年)に玉城保太郎(たまぐすくやすたろう)(1854-1933)によって開発されたミーカガンは素潜りや追込網漁業(アギヤー)などに多大な功績をもたらしました。

 ミーカガンとは現代でいうゴーグル。それまでは海中にサメ油を垂らして透視していましたが、この漁法は目に負担がかかり、失明する漁師もいたとのことです。保太郎は当初サツマイモをくりぬいてガラスをはめていました。その後改良を重ね、ハマスーキ(モンパノキ)を使用し、より性能の高いミーカガンをつくりあげました。Necessity is the mother of invention!(必要は発明の母なり)

糸満海人工房資料館にて展示
[電話]098-987-1550



 

 

 


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