“太平洋のお汁”が伝える命と平和の物語【沖縄たべものがたり】(vol.8)


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 この島には美味しいものがいっぱいあります。

 沖縄の人々がいのちをつないできた大切な食べものと食べものにまつわる物語。

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2018年9月7日は73回目の沖縄戦終結の日でした。

6月23日の「慰霊の日」は、沖縄で組織的な戦闘が終わった日として広く知られています。でも実は1945年9月7日、嘉手納基地で行われた降伏調印式に南西諸島の全日本軍の各中将が集まり、無条件降伏に署名したことで、ようやく本当の意味での沖縄戦が終わったのです。

日本は8月14日にポツダム宣言を受諾、8月15日に終戦を迎えながら、沖縄では終戦を知らず、捕虜になるのを逃れようとガマにこもり続けた日本兵もたくさんいました。彼らに敗戦を知らせに行ったPW(敗戦捕虜)がスパイ扱いされ日本兵に殺されるなど、せっかく戦争を生き抜いたにも関わらず、命を奪われるケースもありました。

沖縄戦で亡くなった人は約24万人と言われています。約10万人の住民と日本兵約10万人、米兵約12000人、戦後、マラリヤや飢餓で亡くなった人が約4万人。実に県民の4人に1人の命が奪われました。「鉄の暴風」と言い表されるように、沖縄本島では畳一畳に1発の砲弾が打ち込まれた計算になります。73年経った今も年間800件もの不発弾処理が行われていて、すべて処理するのにあと70年はかかると言われています。

◆“奇跡の命”を伝えるために

そんな沖縄戦を奇跡的に生き抜いた人から命のバトンを引き継いだ皆さんは、間違いなく奇跡の存在です。命を大事に一生懸命生きなければバチが当たる!

でも悲しいかな、現在、10〜20代の死因のワースト1位は自殺です。

73年前、生きたくても生きられなかった学徒兵の若者たちが聞いたら何て言うでしょうか。恋することも許されず、戦場へと駆り出され、青春を謳歌することもなく死んでいった沖縄の少年少女たち。今の平和は彼らの犠牲の下にあることを忘れてはならない。
彼らの体験した沖縄戦を、今を生きる若者が追体験することができたら、この混迷の時代を生き抜く力とすることができるかもしれません。

実際、私自身、沖縄戦を学んだことで、平和な時代に生まれたことへの感謝、そして与えられた命と時間を大切に、濃密に、無駄にしない生き方をしなければと、心を新たにすることができました。

◆証言を基に描いた舞台「ニイナとオジィの戦世」

そんな想いから、戦後65年の年に今を生きる若者へ向けて沖縄戦の物語を書きました。「鉄血勤皇隊」として招集され、沖縄戦で戦った男子学徒兵を主人公にした物語「ニイナとオジィの戦世」です。(実は私、浮島ガーデンを始める前は放送作家でした)https://ameblo.jp/niinatoojii/

沖縄戦では男子生徒は「鉄血勤皇隊」として、女学生は学徒看護隊として、約2000人もの学生が戦場へ駆り出されています。そして1000人以上の学生が命を奪われました。

8年も前になりますが、脚本を書くにあたり、「養秀同窓会」「ずゐせん同窓会」の元学徒兵・看護隊の方々から直接お話を聞くことができました。彼らの体験と資料を基に脚本を書いたのですが、書いている間は戦争を疑似体験しているような感じで、2カ月間、辛くて苦しくて、そして何より猛烈に悔しくて、泣いてばかりいました。
<学徒隊に関する資料>
http://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/heiwadanjo/gakuto/documents/leeflet.pdf

◆「太平洋のお汁」とは

鉄血勤皇隊は14歳から16歳の中学生と16歳から20歳の師範学校の生徒で構成されていました。お亡くなりになった元県知事の大田昌秀さんは沖縄師範学校の学生で19歳の時に招集されています。

当時、中学校や師範学校へ通うことができたのは頭脳明晰なごく一部の選ばれし若者でした。そんな彼らが生きていたら、今の沖縄は違うものになっていただろうと、生前、大田昌秀さんは語っていたほどです。

米軍上陸の1年前からは学校の授業もなくなり、首里城の下の壕を掘るなど勤労奉仕作業が続く毎日だったそうです。きつい肉体労働をしているにも関わらず、満足な食事は与えてもらえなかった若者たち。

物語の主人公のセリフに「今日もまたあの薄くてまずい味噌汁か〜」というのがあるのですが、これは勤労奉仕の際に出される昼ごはんの味噌汁のことで、味はほとんどなく、海水を薄めたような汁に野菜が少し浮かんでいるだけだったので、学生たちは「太平洋のお汁」と呼んで嫌っていたんだとか。実家住まいの学生は梅干しか油味噌を持っていて、これをおかずにご飯を食べていたそうですが、下宿暮らしの学生は太平洋のお汁と腹5分程度の少ないご飯しか持たせてもらえなかったので、いつもおなかを空かせていたそうです。

それでも彼らの学問への意欲は衰えることなく、夜ともなると電気がついている教室に集まっては、水で空腹を紛らせながら勉強していたそうです。

しかしそれも束の間。1945年3月に招集されると、勉強は一切できず、食事も夜10時と朝3時に炊事場に食事をもらいに行く「飯上げ」だけになり、5月に入って戦況が悪くなると1日1食になったそうです。

いつも飢えていたせいで危険だと分かりながら畑に芋やキャベツを取りに行き、砲弾に打たれて死んでしまった学徒や兵士がたくさんいたそうです。

平和な時代にはあり得ないこと。こんな惨めなことがあったことを知っておいてほしいと、私は「ニイナとオジィ〜」の中で、学友を殺された主人公が「芋のために死んだのかよ」と嘆く場面をつくりました。

◆戦争を学ぶことの意味

今年の6月23日 慰霊の日の京都新聞に、沖縄で戦った日本兵の手記が見つかったと掲載されていたのをご存知ですか。この手記の中にも芋の話が出てきます。
https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180623000032

発見された手記というのは、沖縄へ配属された京都出身と思われる日本兵の手記を英訳したもので、そこには戦場での食のことも綴られていました。

「砂だらけの乾燥の芋を食べた」
「船員が野菜を採りに出かけたが、放火で殺された」

感情表現もなく淡々と事実だけが述べられていて、逆にそんなふうに記した彼の心の内を思うと涙が出ました。

飢えと乾きの中でたくさんの方が亡くなった沖縄戦。

戦争を学ぶことは、人生をより良く生きることにつながり、そして二度と戦争を繰り返さないという強い意思づくりになると思います。

◆戦争を「自分事」にするための体験

岡山経済大学の岡本貞雄教授のゼミでは10年前から「オキナワを歩く」と題し、ゼミの生徒さんが激戦地となった南部を3日間かけて60キロ近くというのを毎年行っています。当時と同じような状況にするため、この時、食べていいのはカロリーメイトと水だけ。

いつでも食べたいものがコンビニで簡単に手に入る現代の学生さんたちにとって、これはかなりきつい3日間だと思います。でもこういった追体験をすることで、これまで歴史の1ページにしかすぎなかった戦争は机上の世界から一気にリアルなものへと変わるのではないでしょうか。

他人事でない、自分事に変わる。これが大事ですね。戦争を体験された方が少なくなりつつある今、これからの平和学習にはこういった体験型の学びが重要になってくると思います。

◆戦争につながるものはいらない

さて、9月30日には沖縄知事選挙が行われます。

8月にお亡くなりになった前県知事の翁長雄志さんは那覇市長だった時代、「ニイナとオジィの戦世」の舞台を「那覇市本土復帰40周年事業」とし、資金不足で困っていた私たちに大きなサポートをくださいました。最期まで平和な沖縄を実現するため、命を削って闘った翁長さんに感動、感謝です。

翁長さんが生前語っていたように、沖縄に生まれた誇りを忘れず、「沖縄のアイデンティティー」を大切に、戦争につながるものはいらないとはっきり明言する新しい知事の下、平和の心を発信し続けてゆきたいです。

次回は戦後、焼け野原となった沖縄で人々を救った食べものについてお届けします。

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― プロフィル ―

中曽根直子(なかそねなおこ) 穀菜食研究家/沖縄雑穀生産者組合 組合長

那覇に「浮島ガーデン」、2016年、京都に「浮島ガーデン京都」をオープン。沖縄の在来雑穀の復活と種の保存、生産拡大のため沖縄雑穀生産者組合を立ち上げる。農業イベントや料理教室、食の映画祭や加工食品のプロデュースなど様々な活動を通して、沖縄の長寿復活に全力投球中。

激戦地となった那覇市安里のシュガーローフヒル(沖縄県公文書館所蔵)
「ニイナとオジィの戦世」の1シーン
一中健児の塔。一中とは首里高校の前身「沖縄県立第一中学校」のこと
13、14歳というまだ幼い子供が戦場へ駆り出された
養秀同窓会の展示室
73年を経てもいのちを宿しているかのように生々しい遺髪と遺書
インタビューをした際の大田昌秀さん。嫌々ながらも舞台を観に来てくださいました。
タレントの前堂ニイナさんがこの舞台を書くキッカケをくれました
「太平洋のお汁」を再現しました
沖縄を代表するバレエ・アーティスト 緑間玲貴さん。すべてを許し、慰め、光へ戻す祈りの舞。
池田卓さん、下地イサムさん、新良幸人さん、UAさん他、皆さん沖縄のためにと、ボランティアで出演してくれました
DVD付きブックレット「オキナワを歩く」