「非行少年は“大物”になる資質を備えている」
「少年院を日本一の学校にする」
そんなメッセージを発信し続け、世の中の偏見や固定観念を打ち破ってきた沖縄少年院の法務教官・武藤杜夫(39)が2017年3月、法務省を去り、教え子である少年院の卒業生2人と共に、「日本こどもみらい支援機構」を設立した。国家公務員という身分を捨ててまでも実現させたい未来とは―。
異動の内示 幹部昇任も「迷わず辞職」
―武藤さんが沖縄少年院を退職したという知らせに衝撃を受けました。多くの人が驚いたと思います。どうして辞められたのですか?
武藤
「ことし(2017年)1月、成人対象の刑事施設に幹部として異動するよう内示が出たんです。迷わずお断りしました。2年前、登山中の滑落事故に遭って死にかけたとき、『残りの人生は現場で子どもたちのために使う』と決めていた。だから迷いはありませんでした。現場から外されることがあればいつでも辞めると、心の中に辞表を持っていましたから」
「辞令を拒否するということは、命令絶対の公務員の世界では辞めるということです。公務員としての“一流”は、命令に従って仕事を続けることかもしれない。でも僕は、沖縄の子どもたちのために現場で残りの人生を使うと決めていたし、子どもたちにもそう伝えてきた。筋を通すためには、辞めるしかありませんでした。そうでないと、僕を信じてくれた子どもたちをがっかりさせることになりますから。子どもたちに嘘はつけません。辞職も、少年院の子どもたちに対する僕なりの教育です」
―少年院を辞めると知った少年院の生徒や、周囲の反応はどんなものでしたか?
武藤
「離任式では子どもたちを前に、辞める理由を自分の言葉で伝えました。内示を拒否したことも全て伝えました。『ごめん、法務教官やめる。けど、お前らのこと見捨てたんじゃない。これからもお前らと関わり続けたいから辞めるんだ』と。そして、『お前らが出院したら、一緒に少年院を日本一の学校にしよう』って」
「あの子たちは黙って聞いてくれました。僕を直視したまま泣いている子もいました。そんな彼らに『日本一の学校って何だと思う。お前たちが社会に出て、一流になって、輝いたとき、沖縄少年院は日本一の学校になるんだ。だから、次は少年院の外で会おう。社会で待ってるよ』と話しました」
「辞職を知った周りの大人の反応はさまざまでした。応援してくれる方もいれば、『後悔するぞ』と言う方もいた。そういえば、この『後悔するぞ』という言葉は、学校をボイコットしていた中学時代にも先生から言われたことがありました。でも、自分で選んだ道には決して後悔がないことを、僕はもう知っていますから(笑)」
少年院の教え子2人と新出発
「日本こどもみらい支援機構」を設立
―辞職直後の4月、法務教官時代の教え子2人と「日本こどもみらい支援機構」を立ち上げ、新しい挑戦を始められました。
武藤
「僕が少年院を辞めたことをフェイスブックで知り、すぐに連絡をくれた沖縄少年院の卒業生・宮平魁樹(24)と原琢哉(24)の2人に、4月8日、那覇市内で再会しました。沖縄少年院で個別担任として関わった教え子たちです。法務教官は、院の規定で卒業生と個人的に交流することが禁じられています。2人は時折、院に手紙をくれていましたが、会うのは約5年ぶりでした。この2人は、僕が赴任して間もない、沖縄少年院が荒れていた時期の教え子たちで、特に反発ばかりしていたやつらです(笑)」
武藤
「一番苦労させられたんですよ、この2人には。でも、僕が一番成長できたのも、この時期だったように思います。僕が教えたことと、教えられたこと、どっちが多かったんだろうかと。『自分が学んだ分しか相手は学ばない』『人を育てるには、常に自分が育ち続けるしかない』…。そして、一番手が掛かった2人と、こうして今つながっているのも不思議です」
―琢哉さん、魁樹さんにとって、武藤さんはどんな存在でしたか?
琢哉
「とにかく熱い先生でした。『更生しろ』とかじゃなく、『ただ目の前にあることを頑張れ』って教えられた。うっとおしいと思ったこともあったけど、武藤先生が言っていることは、全部当たっていた」
魁樹
「最初は『うざっ』て思っていたんですけど、ずっと話し掛けてくるんで…。あんなに向き合ってくれる人はいなかったですね。しかも、大人はみんな口ではいいこと言うけど、行動している人って少ないじゃないですか? でも武藤先生は、生徒に言ったことを自分でも本当にやっていた。脱いだスリッパをきちんと並べたり、真剣にトイレ掃除をしたり…。説得力があったんですよ」
「先生に出会ってなければ、今の自分はない」
―武藤さんが少年院を辞めると知り、魁樹さんから連絡したそうですね。
魁樹
「フェイスブックで武藤先生が辞めたってことを知って、びっくりして琢哉に連絡したんです。で、武藤先生にメッセージを送って4月8日に3人で会いました。辞めて何するんだろうなって思っていたら、『少年院を日本一にしようぜ』って言われました。久しぶりに会ったけど、あの頃と何にも変わらず熱かった(笑)。武藤先生の言うことで、今まで間違ったことはなかったし、面白そうだなって思って…。断る理由もないし」
「昔の僕みたいにやんちゃしている人に、自分の経験を発信していくこができればいいなと思ったんです。“人のため”とかじゃなく、自分のためにやろうと思った。やんちゃしている人に『やめれ』と言っても、すぐには無理だけど、いつか感じる時がくると思う。今までいろいろ悪いことをしてきて、いろんな人や本に助けてもらったから、これからは自分が何か役に立てばいいなって思う」
琢哉
「男だな~って思いました。普通は自分がやってきた仕事を辞めて、新しい仕事をするって大変じゃないですか? 希望していない異動の内示が出たからって、普通の人だったら『分かりました』って行くじゃないですか。それを断って辞めるって男だな~と思いました」
「新しいことに挑戦するってすごいなって。驚きは大きかったけど、武藤先生に出会っていなかったら今の自分はなかった。だから、この人にだったらついて行ける。『何でも協力します』って言いました」
「自分が経験したことを話すことで、ちょっとでも誰かが頑張れるきっかけになれば。『こんな俺でもできるんだから、みんなもできるよ』って。まぁ、できているって言っても自分もまだまだだし、今からスタートですけどね」
武藤
「2人とも、ありがとうな…」
卒業生が輝いてこそ“日本一の学校”になる
―日本こどもみらい支援機構として、今後どんな活動をされる予定ですか?
武藤
「実はまだ何も決まっていません(笑)。これから3人で話し合って決めていきたいと考えています。僕にとっては、“何をやるか”より、“誰とやるか”の方が重要なんです。彼ら2人と一緒に、少年院の卒業生たちと一緒に何かやりたい、という思いが先にありました」
「ただ、法務教官をやっていた当時も、辞めた今も変わらず思っているのは『少年院を日本一の学校にする』ってことです。『少年院はダメ人間の集まりだ』っていう偏見をひっくり返したい。“日本一の学校”って何か? それは施設の中でだけ大人の言うことを聞く『おりこう』を育てることじゃない。社会に出たときに日本一になれる人間を育てられる学校が“日本一の学校”なんじゃないでしょうか。社会に出た卒業生たちが輝き、社会から本当に必要とされる人財に成長したとき、少年院が日本一の学校になるのは『そのとき』です」
「これからは外から、今までとは違った立場で『少年院を日本一の学校にする』挑戦を、卒業生と一緒にやっていきます。僕も含めて、3人とも少年院に育ててもらったので」
―すでに6月には3人で、県外で講演されることが決まっているそうですね。
武藤
「お声掛けをいただいて、大阪では一般向けに、京都では教職員向けに、そして兵庫では警察学校で未来の警察官に向けて話すんです。僕らが警察官に話をするなんてな(笑)。何話すか? まずはみんなで謝らないと」
琢哉
「頭下げないと(笑)」
魁樹
「すみませんって(笑)」
話しを聞くこと 向き合うこと
―家にも学校にも居場所がなく、孤独の闇に足を引きずられる子どもたちや、生きづらさを抱えた子どもたちが大勢います。今、どんなサポートが必要だと感じていますか?
琢哉
「話を聞いてあげることじゃないかな。最初はあまりしゃべらないけど、徐々に素直になると思う。そのうち打ち解けて、本音を話すようになるんじゃないかな」
武藤
「それ、お前だよな(笑)」
琢哉
「(大笑い)まぁ、初めは受け入れたくないというか、素直になれないでしょう。肩で風を切って歩いている子が、親になんか相談できないじゃないですか? プライドっていうか、今さらっていうか…。
でも反発されても、話し掛け続けることが大事だと思う」
魁樹
「向き合ってくれる人が必要だと思う。まぁ自分は、向き合ってくれようとした人も払いのけてきた気がするけど(笑)。
けど、俺らみたいにやんちゃしてきた人が、話をするほうが説得力もあるし、『分かりました』ってなるんじゃないかな」
武藤
「やるべきことが見えてきたな」
夜の居場所の必要性
―あらためて、これからの目標やビジョンを聞かせてください。
武藤
「僕は子どもたちに『勇気を出そう』『挑戦しよう』と伝え続けてきました。だから、まずは自分自身に挑戦する責任がある。『共育』っていろんな人が言いますが、この言葉ほど言うのが簡単で実行が難しい言葉はありません。本当に実践しようとすると大きなリスクを伴うものです。僕にとっては、少年院を辞めたことも『挑戦』であり『共育』です。子どもたちはそんな大人の背中を見ているのではないでしょうか」
「機構の活動とは少し別の話になるかもしれませんが、夜の居場所がない子どもたちの緊急避難先が必要だと痛感しています。深夜徘徊をしている子たちは、家に帰れない理由がある子も多いんです。ただ『帰りなさい』と言っても、帰る場所がないのだから問題は解決しません。僕が一番困っているのは、夜の街の子ども、特に女の子を保護したときです。例えば市役所のロビーなど、安全な居場所を朝まで緊急避難的に利用させてもらうことができないか、各方面に打診しているところです」
「今の子どもたちは体の成長は早いけど、心の成長は反対に遅くなっているように思います。養育環境の変化で、社会的自立の時期が遅くなっているからです。成人を18歳に引き下げる議論がありますが、僕は反対です。逆に、22歳まで引き上げて少年法の保護を受けられる期間を延ばし、刑務所でなく少年院へ収容した方がいい。少年院のいいところは『逃げられない』ことです。普通は嫌なことがあれば逃げられるじゃないですか。でも、『逃げられない体験』をすることで、『環境じゃなく、自分を変えないといけない』って気づくことができます。日本の教育機関で、そんな体験ができるのは、今や少年院だけだと思います」
「少年院の卒業生たちが、履歴書に『○○少年院卒業』って胸を張って書くことができる。そんな時代をつくるために、まずは僕たちが立ち上がります」
【プロフィル】
武藤杜夫(むとうもりお) 1977年9月6日、東京都生まれ。
中学生時代から非行が始まり、問題行動が深刻化。ボクシングジムに入り浸り、学校をボイコットしていたため、成績は3年間オール1。おちこぼれの烙印を押される。
その後は、ヒッチハイクで全国を放浪するなど浮浪児同然の生活を送るが、教育者としての使命に目覚めると、一転、独学による猛勉強を開始。一発合格で法務省に採用される。
2009年には、沖縄少年院の法務教官に着任。逆境から獲得した人間力で多くの非行少年を感化し、更生に導くなど、短期間でめざましい実績を上げる。マスコミの注目を集め、スーパー公務員として将来を嘱望されるが、2017年、幹部への昇任を固辞して突然辞職。同時に、教え子である少年院の卒業生らと「日本こどもみらい支援機構」を設立し、代表に就任する。
現在は、沖縄全島を舞台に、非行を始め、不登校、ニート、ひきこもりなど様々な問題を抱える青少年と現場最前線で交流しているほか、講演活動、執筆活動などにも精力的に取り組んでおり、その活躍の場は全国へと広がっている。
聞き手・佐藤ひろこ(さとう・ひろこ) 琉球新報Style編集部。北部支社報道部、社会部、NIE推進室、文化部などを経験し、特に子どもを取り巻く諸問題に関心を持って取材してきました。大阪府出身。中1、小4、4歳の子育て中。目下、「働き方」「生き方」の見直しに挑戦中です。