イギリスを拠点に外資系航空会社の国際線CA(キャビンアテンダント=客室乗務員)として世界を飛び回る一方、チャンネル登録者数20万人超の人気YouTuberとしても活動するChiaki(チアキ)。本名は安谷屋知秋(あだにや・ちあき)さん(30)。そう、沖縄出身なんです。YouTubeでは、CAならではの視点で、華やかなメイク動画や海外旅行時の豆知識、ワンポイント英会話や海外人気コスメ(化粧品)の紹介など多彩な動画を公開しています。普段はイギリスで暮らすChiakiさん。沖縄に里帰りしたタイミングでインタビューすることができました。「人気YouTuber」に「外資系CA」と一見華やかな肩書きですが、そこにたどり着くまでの道のりには、本人も「黒歴史」と語る過去のつらい経験がありました。仕事のこと、YouTuberになったきっかけ、そして沖縄での子ども時代の話など、たくさんお話をうかがいました。
(聞き手・仲井間郁江 琉球新報Style編集部)
いじめ、のけ者の「黒歴史」
Q=CAを目指したきっかけは。
祖母が宮古島に住んでいて、小さい頃からよく飛行機に乗って宮古島に行っていたんです。その時のCA(キャビンアテンダント=客室乗務員)さんがとてもステキだったのが幼心に印象に残っていました。母親がCAになるのが夢だったことも影響していると思います。小学生の頃は単なる「憧れ」だったけど、高校生の時に職業として目指そうと決めました。
Q=小さい頃はどのような子どもでしたか。
すごくシャイで、誰とも話さないタイプでした。三人兄弟で弟と妹がいるんですが、この2人はすごく目立つタイプなんですけど、私は全然。小学校1、2年生の頃は、朝、登校して教室に入っても先生の姿が見えるまでは親がそばにいないとダメな子でした。
Q=YouTubeでも少し触れていますが、中学・高校時代はつらい思い出も。
中学3年生の頃から周囲の目が気になるようになり、人が言うこと気にするようになりました。今でいういじめのような感じで。陰で「プリンセス」ってあだ名を付けられて、友達から無視されて陰口をたたかれていました。
今思えば、あだ名にしてはカワイイあだ名ですよね、プリンセスって(苦笑)。私がキラキラしたものや、ピンク色が好きだったからそういうあだ名になったみたいですけど。
友人から無視されて、仲間外れに。周囲の目は気になる、でも同時に自分を周りの人に合わせて「作る」事が嫌だったので、周囲にムリして合わすよりは・・・と、1人で過ごすようりました。仲間外れにされたグループとは別の女子グループの子と仲良くなろうと思って話し掛けても「チアキ最近よく話しかけてくるよね〜、変だよね〜〜」って言われて、のけ者扱いになっていきました。
支えになった母の言葉
Q=とても苦しいですね。いつまでそのような状況が。
高校に進学しても、そんな状況が続きました。
高校は給食ではなくお弁当。皆、大体仲良し同士グループで食べるんだけど、私は一人で食べていました。教室が居心地悪くて、トイレで食べたこともありました。お昼時間は教室から「消えて」よく図書館にいました。でも、一人でいる自分を不思議と「かわいそう」と思ったことはありませんでした。人に合わせて本来の自分とは違う自分になるよりは、一人でいいやって思っていました。でも時々、授業でグループ作業があって、その時間は正直つらかったです。逃げようにも逃げられないから。
こういう時期にずっと支えてくれたのが母でした。「人に合わせず自分でいることが将来につながる。人と違うものを見ているから、一人でいることにも可能性は秘めているよ」と励ましてくれました。母の言葉で「今の孤独も将来の大きな何かにつながっている」と、将来への希望に思えて、寂しさはあまり感じずにいれました。
Q=中学と高校では学校も変わる。環境も友人関係も大きく変わるチャンスにはならなかった?
私も高校は中学時代とは変わるかなと思っていました。でも結局、自分自身が変われなかったし変わる強さもなかったから、変われなかった。地元の高校に進学したので中学時代の人間関係がつながっていたのもあるかもしれません。
だから、高校を卒業してアメリカに行ったんです。
夢の前に立ちはだかる「対人恐怖症」の壁
Q=アメリカ行き、両親は驚いたのでは。
父はとても反対しました。父は、私が地元の大学に進学することを望んでいたので。地元の大学も受験しましたが、わざと解答を書かずに出しました。それくらいどうしても沖縄を出て、環境を変えたかったんです。
仲間外れにされた中3の頃から高校の時もずっと「対人恐怖症」のような症状に悩まされていました。人前で話すと汗が出て震えが止まらない。私の夢はCAになることなのに、このままでは心も体もボロボロで夢を叶えることができないって、不安と怖さでいっぱいになりました。夢はあるのに今の自分の現実からほど遠いって。
そんな高校時代だったから、卒業したら外に出よう、そしないと自分は変われないって思ったんです。17歳、18歳で将来のこと決めるのは難しいし、この先、どんな世の中になっているかは正直わからない。でも自分の人生だから、どうしたいかは自分が一番知っているって思ったんです。だから父に反対されても絶対アメリカに行きたいって思っていました。
簡単には変われない。でも一歩ずつ
Q=アメリカに行って対人恐怖症は克服できた?
アメリカでも最初の数カ月間は症状に悩まされました。環境が変わったからってそんな簡単にすべては解決しなかった。でも自分で小さな目標を立てて、それを一つずつ実行していくようにしたんです。
「1日1人には自分から話かける」という目標を立てて、それを続けていくという感じでした。
Q=目標が達成できない日もあったのでは。そんな時は自己嫌悪になったりはしませんでしたか。
「なんくるないさ(なるようになる。なんとかなる)」精神があるのか(笑)、目標を達成できなかった日もあったけど、その時は「やろうと思ったこと、挑戦しようと思っただけでもエライ。自分、前進したな」って思っていました。こういう風に、本当に本当に少しずつですが、自分のなりたい自分になれるようになっていきました。
母がいつも言ってくれていた「人と一緒に行動しないチアキには、人とは違う可能性を秘めている」って言葉がアメリカ生活でも支えになっていました。
Q=アメリカではどんな生活を。
米国のシアトルで2年制の大学に通いました。CAになるために何が必要か調べたら、必ずしも4年大卒である必要はなかった。4年の時間を費やすより、早くCAの夢にたどり着きたかったので、2年制大学に進学しました。
Q=見知らぬ土地での生活、つらくなかったですか。
沖縄の中学、高校時代の方がつらかったです。
Q=アメリカの大学卒業後CAに?
いえ。沖縄に帰ってきて2年間、ホテルやカフェで働きました。国際線CAになるための最低限の語学力はアメリカで身につけたので、次は接客・サービスを学びたいと考え、接客業に挑戦しました。
独学での挑戦
Q=最初からCAの専門学校に通えば英語も接客も両方学べたのでは。なぜその方法を選ばずに?
「学校」が好きではなかったから。やっぱり中学、高校時代の嫌な記憶があるので。でもCAにはなりたい。じゃあどうしようって考えた時に、専門学校には通わずに自分独自の方法でやってみようと。自分なりの方法で合格できなかったら、その時はイヤだけど、専門学校に行こうって考えていました。
沖縄に戻ってホテルやカフェで働きながら外資系航空会社のCA試験を受けて、6社目で今の会社に合格しました。24歳の時。今年で働いて6年目になります。
Q=国内の航空会社ではなくなぜ外資系に?
日本にいると中学、高校時代のつらいことがよみがえるし、不思議と海外にいるとのびのびした自分でいられるなって。大学留学時代にそう感じたので、就職先は外資オンリーと決めていました。
Q=YouTubeを始めたのは2015年。なぜ始めようと。
きっかけはCAとしてお客様に色々な情報を提供することが楽しいなって感じて。YouTubeを通して多くの人に私の知っている情報を伝えて喜んでもらえたら嬉しいなと思い始めました。将来CAを目指している人の役にも立ちたいなって思って。自分が(CA受験の専門学校に通わず)独学でCAに合格したので、そのノウハウも伝えられればなと。
Q=撮影や編集の知識はどうやって身につけた?
インターネットで調べて。手探りでやってます。一人でやってますが、編集をする時は、一歩引いて自分を客観視するように意識しています。
Q=YouTuberとして有名になると、ファンができる一方、誹謗中傷のコメントをするアンチ的な人も出てくるのでは。
確かに、傷つくコメントも中にはあるので、フライト前は見ないようにしています。仕事前にコメントを見てしまうと、機内でも思い出してイヤな気持ちになってしまうので。
批判の声は、CAの仕事でもあること。こちらとしてはお客様に良かれと思ってやったことでも反発したりする人もいる。YouTubeも同じかもしれないなって。
こちらは良かれと思って情報発信しているけれど、人によっては、とにかく悪口を言いたいって人もいる。まともに受け止めなくて良いかなぁと思うようになりました。
Q=中学や高校の同級生からコメントや連絡が来たりしましたか?
ありました。私の「黒歴史」みたいな感じで過去の話をした動画をアップした後に、昔の同級生から「あの時、ごめんね」って連絡が来ました。恨むとか、そういう気持ちにはならずに、「あっ、水に流そう」って思えたんです。そう思えたのは、たぶんそれは、今がすごく充実しているからだ、って思いました。夢だったCAになれて、すごく良い環境で仕事ができている。だから今もし、昔わたしを無視した同級生に会っても普通に話せるなって思いました。
中学、高校時代のあの時の経験があったから今の生活があると思っているんです。
友達に無視され続けて一人で過ごしていたあの頃、「絶対、将来、何か達成してみせる」って気持ちが生まれたんです。この気持ちがあったから、CAに挑戦できたし、夢を叶えられた。あの経験があって良かったと今は思えます。
いつも心に〝いちゃりばちょーでー〟
Q=自身のターニングポイントと言えば、いつですか。
CA試験の面接で、面接官に自分の意見を胸を張って言えた時。「あっ、自分、変わったな」って思えました。質問はよくある「あなたにとって最高のサービスとは」という質問だったとは思いますが。
実はその試験の前に他の航空会社の面接で大失敗していたんです。2社目の面接の時、急に昔の「対人恐怖症」の症状が出てしまったんです。緊張感が影響していたんだと思うんですけど。ドキドキから汗が止まらなくなって、そしたらみるみるうちに表情もこわばって。悔しさがいっぱいで、面接官の前で大泣きしてしまたんです。「対人恐怖症は、アメリカ時代に克服した!」と思っていたので、その出来事が自分でもとてもショックで。
そんな面接の後だったので、同じ失敗をせずに、ちゃんと面接で答えられた時、今度こそ本当に「過去は克服できた。自分は変わったんだ」と思えて、とても嬉しかったです。
Q=CAとしてイギリスを拠点に世界中を飛び回る生活。故郷沖縄はどういう存在ですか。
沖縄のゆるやかな時間と海風は、海外で暮らしていても時々思いをはせます。
海外のビーチリゾートに出かけた時に、沖縄と似た雰囲気を感じることもありますが、やっぱり沖縄にしかない空気感があるなぁって思います。
沖縄の「なんくるないさ」って言葉が一番好きです。あと「いちゃりばちょーでー(出会えば皆兄弟)」の精神も大切にしています。
CAとしてお客様と接する時、お客様を「家族」だと思って接すると一番良いサービスができると思っています。ご高齢のお客様を「自分のおばあちゃんだったら」と思って対応するようにしています。すると飛行機を降りる時にお客様から「あなたのサービスが一番良かった」と書かれたメッセージをいただいたりしました。沖縄で学んだ「いちゃりばちょーでー」の精神が生かされたなって感じました。
Q=今後の夢は。
CAはずっと続けていきたいと思っています。フライトの度に毎回学びがある仕事なので。あとは、自分自身をもっと成長させて、昔の自分のように悩んでいる人や困っている人の「勇気」になることができたらいいなって。誰かの為になることができる人になれたらいいなって思っています。
Q=同世代の人にメッセージを。
仕事で色々な国を訪れ、お客様も様々な国の方々と接しますが、本当に世界は広いなぁ感じます。国籍も様々で色んな考えをする人がいる。日本人が考えもしないことをする人が世界にはいる。
そしてこれは特にCAの同僚を見ていて思うのですが、年齢は関係ないなとも強く思います。いくつになっても「遅い」っていうことはない。私も独学でCAを目指して合格したのが24歳の時。日本で考えれば、CAの世界ではもしかしたら遠回りしている方かもしれません。でも、今の会社では、同僚CAは新人でも40代が多いんです。「なぜこの歳になってCAになったの?」て尋ねたら「自分がやりたいって思ったことはいくつになっても挑戦したいって思ったの」て答えたんです。正直すごいなって思いました。
すごく年上のCAの先輩でも、お肌も、振る舞いもキレイで、いくつになっても自分磨きを続けている。周囲に、楽しそうに生きて年齢を重ねている人をたくさん見ているので、自分もいくつになっても挑戦し続ける人でありたいなって思っています。
若い時って、皆と同じが良い、皆と一緒にいたいって思いがちですが、人と違うことも良いことだと思うんです。成功している人や夢を実現している人は、何か人と違うものを持っているなって、今、あらためて思っています。
【インタビュー後記】
なんとなく開いたYouTubeで、「外資系CA」というタイトルに惹かれて見たのがチアキさんの動画でした。動画を見始めた時は、まさか沖縄出身の人だとは思いもせず。数本の動画を見て沖縄出身だと分かった時は、なんとしてもインタビューしたいと思いコンタクトをとりました。実際にお会いしたチアキさんは、想像とは異なり?!「素朴」な方だというのが正直な印象。
とても素朴で、丁寧に言葉を紡ぎだそうとする姿に、会う前以上にファンになってしまいました。
そして何よりも、夢の実現に向けて試行錯誤しながらも道を切り拓いてきたその芯の強さに美しさの源を感じました。
動画の中で時々のぞくウチナーなまりを見つけるのが私の楽しみでもあります。これからもウチナーイントネーション、期待しています。