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偶然が重なった命 100cmの視界から―あまはいくまはい―(75)


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子どもたちが、笑ったり、歌ったりしているのを見かけると、私はなぜか涙があふれてきます。わが子の参観日には、私一人だけ泣いてしまうのです。そんな自分を、自分でも不思議に思っていたのですが、自分の中に「戦争の傷」があると気が付きました。

私の父は、昭和19年(1944年)、戦争前の阿嘉島で生まれました。私の祖父は久米島出身ですが、教師をしていたので、転勤で阿嘉島に住んでいました。父が1歳の時、戦争が始まり、爆弾が落ちる中、父はハイハイをしながら外に出てしまい、肩に弾が入りました。幸い命はとりとめましたが、今でもその傷痕があります。

阿嘉島にも内地から兵隊が配属され、祖父は若い兵隊たちと仲良くしていました。アメリカ兵の上陸は慶良間諸島から始まり、沖縄戦終戦を迎える前には、祖父はすでに捕虜になり、ハワイに連れて行かれました。トランペットやピアノを演奏できた祖父は、雑務を逃れ、アメリカ兵に演奏ばかりを頼まれ、かわいがられたそうです。皮肉にも捕虜時代のことを語る彼は、楽しそうで、誇らしげでした。でも夜寝ている時は、戦争中の夢を見るようで、うなされ、暴れることが多かったです。

また祖父が仲良くしていた兵隊仲間が家族連れで毎年のようにわが家に来たのです。私もかわいがってもらいました。沖縄戦で阿嘉島にいた祖父は「集団自決」をまぬがれ、戦後も兵隊さんとの友情を築きました。
 

祖父母が大好きで、いつも抱っこしてもらっていました

「今、私が生きているのは、偶然の積み重ねにすぎない」。祖父の話を聞く度に、父の肩の傷を見る度、そう思うようになりました。当たり前のように見えるけれども、たくさんの偶然が重なり、ギリギリのところでつないでいる今の命。自分が歩けないのも、たまたまそうなっただけで、理由は何もない。祖父の演奏の芸が身を助けたように、できることを磨いていると、思いもよらないところで役に立つ。そう信じるようになったのです。

だから今、子どもたちの元気な姿を目にすると、戦争がなく、大きな病気もせずに、命のバトンが引き継がれていることに、言葉にならない安堵(あんど)と喜びを感じて、涙してしまいます。同時に、生まれた場所や、環境のせいで、苦しむ子どもたちがたくさんいることにも胸が痛みます。子ども自身にまったくの責任はなく、どんなに頑張ってもうまくいかないことがあるのだから。偶然の積み重ねで受け継がれた、命の重さを感じながら、そしてそれをわが子に伝えながら、黙とうします。 
 

(次回は7月7日)

伊是名夏子

いぜな・なつこ 1982年那覇市生まれ。コラムニスト。骨形成不全症のため車いすで生活しながら2人の子育てに奮闘中。現在は神奈川県在住。

 

(2020年6月23日 琉球新報掲載)