沖縄に転勤して3年目です。那覇高校前の近くにはたくさんの通りがありますが、この場所は昔からにぎわっていたと聞きました。詳しく調べてみてくれませんか?
(にゃむにーさん)
ユニークな質問が来ましたね。地図を広げてみましょう! 那覇高校付近には「ハーバービュー通り」「開南せせらぎ通り」、「松尾消防署通り」、「裁判所通り」。たくさんの通りがあることが分かります。
馬車や人力車もあった
「那覇高校前のことを『二中前』と呼んでいましたよ~」というのは、「一般社団法人城岳同窓会」の事務局長でトロンボーン奏者の與儀幸英さん(72)。城岳同窓会は、1953年に那覇高校の前身である「沖縄県立第二中学校」の同窓会と那覇高校の同窓会が合併して設立された同窓会。與儀さんは那覇高校の20期生(67年卒)です。
「私たちの頃はね、学校前の交差点に『かどや』という飲食店もあったし、よくぜんざいを食べましたね。5セントぐらいだったかな。Aサインバーも並んでいました。私がいた吹奏楽部の楽器は米軍からもらったものでした。私は那覇生まれなんだけど、小学校の頃までは馬車がありましたよ。車はまだまだない。中学校になってからは馬車を見なくなりましたね」と與儀さん。
続けて「ベビーブームの時代だったから、中学校時代は教室にいっぺんにこどもが入りきれなくて、午前と午後に30名ずつ授業を受けました。2部授業です。窓から外にでましたよ(笑)」とも。どれも今と全く違う風景で、調査員はビックリ。特に馬車には驚きました。
後日、調査員が図書館で調べてみるとたしかにあったようです! 「沖縄に汽車や電車のないころ、導入されたのは『馬車』。地方から那覇への砂糖運搬と帰り車を利用して肥料や日用雑貨の運搬に使われ、明治、大正、昭和三代にわたる交通運輸機関として重宝な存在だった」(那覇市史資料篇第2巻中の7)と文献に記載されています。馬は沖縄の在来種が主に使われ、馬による運搬の次は駕籠(かご)。人間2人が先棒と後棒になって人間1人を運ぶ道具で、明治17年ごろには人力車もあったとか。
「字二中前」だった
調査員が次に向かったのは、松尾消防署通り。遺言・相続専門「行政書士ジャジー総合法務事務所」(松尾)を営む城間恒浩さんと母の城間ゆき子さんが迎えてくれました。
復帰前の70年頃ゆき子さんはパスポートを持って、幼かった恒浩さんを連れて鹿児島から船で来沖。そのころの松尾は、糸満から頭にタライを載せて魚を売りに来る人や、天びんをかついで豆腐を売りに来る商い人がたくさんいて、魚、肉、卵、文具などお店がたくさん。県庁が近いためホテル、旅館がたくさん立ち並び、冬のあいだ滞在する旅行客や大会などで離島からきた学生たちなど、常連さんがよく訪れていたそう。
恒浩さんは「僕が小学校のころは、銭湯も3カ所ぐらいあったんです。僕も父や友達と行きましたよ。近くの広場では、よく野球やビー玉で遊びました」と松尾を案内しながら話してくれました。
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古い地図を広げると、那覇高校付近は「字二中前」。現在の那覇高校前の交差点から県庁のあたりは旧真和志村、上泉町、下泉町。今でも「曝書山房跡」、「湧田地蔵堂跡」、「シーサーマチュー」などの案内板と共に歴史の息吹が残ります。古き時代の足跡をのぞいてみると面白いですよ。
〈参考文献〉
・「沖縄県立第二中学校 沖縄県立那覇高等学校創立百周年記念誌」(二中・那覇高校創立百周年記念事業期成会)
・「那覇市史 資料篇第2巻中の7」(那覇市)
(2021年12月9日 週刊レキオ掲載)