沖縄出身のアーティスト、MEIRI。2015年のデビュー後からシンガーソングライター・ダンサー・モデル・MCと活躍の幅を広げている。さまざまな顔を持っている彼女だが、2021年からはより一層音楽活動に力を入れている。その背景には改めて自身のルーツである沖縄に目を向け、アイデンティを見つめ直すことで、自らが表現すべき意味と道が開けたという。沖縄民謡とヒップホップの双方に影響を受けた彼女が生み出す音楽は、「ウチナーンチュとして伝えるべきことがある」というメッセージともリンクする。まだ先の見えない不安な世の中を「琉球の表現者」として歩んでいく彼女の思いに迫った。
◇聞き手 野添侑麻(琉球新報Style編集部)
―自己紹介をお願いします。
MEIRIです。沖縄を拠点にアーティスト活動を行っています。生まれは大阪で、10歳の時に沖縄に移り住みました。シンガー、ダンサー、モデル、MCなどマルチに活動させてもらっています。
―MEIRIさんがアーティスト活動を行うことになったきっかけを教えてください。
幼い頃から触れていた沖縄民謡がきっかけです。「りんけんバンド」と「ネーネーズ」の大ファンで、彼らの追っかけをしていて、「上原知子さん(りんけんバンド)になりたい」が口癖の女の子でした(笑)。小学生になっても民謡歌手になりたいっていう思いが変わらなかったから、覚悟を決めて親に「沖縄に移り住んで、民謡をやりたい」って頼んだけど、子どもが言うことだから全然取り合ってくれませんでした。でも、何度もお願いしているうちに本気度が伝わって、引っ越すことになったんです。
―MEIRIさんの「表現」のルーツは、沖縄民謡だったんですね。
お父さんがウチナーンチュなので、三線の音色に血が騒いだのかも(笑)。大阪に住んでいた時は、近所の沖縄居酒屋が営業前に三線教室を開いており、そこで稽古をつけてもらっていました。沖縄に移ってからはずっと独学で、民謡も三線も耳で聞いて学んでいました。12歳になると琉舞も学びました。でも高校生になると家から離れた学校に通っていたので、舞踊教室からは足が遠のいちゃったんですが、ダンス部に入部してストリートダンスを始めました。
―MEIRIさんは、ダンサーとしての顔も持ち合わせていますが、ダンスのルーツは琉舞から始まっていたんですね。ダンス部に入るきっかけは、琉舞の延長線上で踊るのが好きだったからでしょうか?
いや、憧れの先輩に誘われたのがきっかけです!(笑)。毎日放課後に学校の中庭で踊っている女の子がいて、その子はダンスが上手いのはもちろん、踊りの中に空手の型や琉球舞踊のような動きを織り交ぜながら踊っていて、それがむちゃくちゃカッコよくて、よく上の教室からこっそりと眺めていたんです。すると後日、その子とすれ違った時に「いつも上から見てるよね?一緒にダンスやってみない?」って、声をかけられて入部することになったんです。聞いてみると、その子は現代版組踊の団体に参加していて、その練習をしていたらしく、その動きを私は空手や琉舞の動きと勘違いしていたんです(笑)。その子との出会いがきっかけでストリートダンスに出会って、ヒップホップのカルチャーに触れていくことになります。
高校卒業後もストリートダンスは続けていたんですが、特に「これを仕事にしたい!」と思ったことはありませんでしたが、そんな時に芸能事務所からスカウトを受けました。ダンスはもちろん、歌も好きだったので、チャレンジすることに決めて、20歳で上京。そこからは2年半ほど東京で活動した後、沖縄に活動拠点を移しました。
―芸能活動を始めるにあたって、沖縄から離れた場所で生活することも多かったと思いますが、その時に感じたことや思い出深い経験はありますか?
2014年に歌とダンスの勉強のためにアメリカに短期留学をしました。ダンスはジャネット・ジャクソンの振付師の先生、ボイストレーニングはリアーナを担当している先生という、超一流のトレーナーから朝から晩までしっかりレッスンをつけてもらいました。また言葉が通じない中でどう自分をアピールしていくか、という貴重な経験が出来て、メンタル面がガラッと大きく変わりました。現地のアーティストの卵たちは、実力があるのはもちろんですが、何より自身に満ち溢れた姿で、驕ることなく常に自分自身に矢印を向けてやるべきことに取り組んでいました。その姿が、それまで無駄なプライドを持って生きていた私には衝撃だったんです。
私は「プライドを持つのは当たり前」と思っていたけど、それは勘違いで周りの子たちは自分に自信を持って行動していて、それは私の考えている「プライド」とは違った。でも私は自信がなくて「プライド」という名の鎧(よろい)で自分を守っていただけということに気づきました…。そのことがあらわになって、実力も全く通用せず、鼻をへし折られた感じでしたね。自分のマインドや取り組みを変えるきっかけになった瞬間でした。
また現地で私のケアをしてくれるメンターの方がいたんですが、スピリチュアルなマインドを持っている方で、エネルギーに満ち溢れた魅力的な人でした。話すと内側から元気になれるし、自分のロールモデルを見つけたような気持ちでした。その方と接する中で、私が元々持っていたスピリチュアルな考えもより広がって、それが今の音楽活動にも繋がっているきっかけとなっています。
―アメリカではダンスや歌といった基礎の部分を固めることができた上、精神的にも濃い期間を過ごせたんですね。韓国ではどのような出来事があったのでしょうか。
アメリカ留学から帰ってきた後は、デビューに向けて準備をしていた時期で、韓国はその一環でMV撮影のため訪れたんですが、これもまた忘れられない時間を過ごすことができました。現地の撮影チームの皆さんが全員良い人で、情に厚くて初めて会った感じがしませんでした。そんな彼らと言葉は通じなくても、心の通い合った瞬間が何度もあったんです。
海での撮影シーンで、ちょうどその時間帯は干潮で海らしい絵は期待できなかったんですが、監督には「あなたの『故郷を離れた寂しい気持ち』を表現するには、満ちている海よりも潮が引いている海の方が合うんじゃないか」と提案してくれたんです。他のスタッフさんは「それじゃあ、海で撮る意味ないよ~!」って茶化してきたんですが、私と監督とカメラマンの3人は同じ思いだったので、通じ合った気がしてそれがすごく嬉しかったんです。
また撮影のために砂浜に降りた時に、その日ずっと雨だったのにその時間だけ晴れたんです!まるで韓国の地が自分を歓迎してくれた気がして自然と涙が出てしまったんですが、カメラマンと監督は「それでいい。感じている感情を素直に出すのは正しいことなんだよ」って言ってくれて、それがすごく心強かったし表現者としての自信にもなった。言葉が通じなくても分かちあうことが出来ることを感じました。作品の出来以上にこの時のスタッフさんたちとの出会いが宝物。「またあの場所にいきたい、また彼らと一緒に仕事したい」っていう思いが今も音楽をやっている理由の一つです。
―そんなMEIRIさんは、しばらく音楽活動を休止していましたが、2021年には楽曲を立て続けにリリース。作詞作曲を自身で手掛け、琉球ゴールデンキングスのハーフタイムショーにもライブ出演するなど話題となりましたね。
去年から一層力を入れて音楽活動に向き合っています。作詞だけじゃなく曲も自分で作れるようになったのが、大きな進歩に繋がっていると思います。実は曲作りは東京から沖縄に帰って来た時に心機一転のつもりで新しい趣味の一環で始めていたんです。スマホのアプリで作っているので「ビートメーカー」と名乗るには恥ずかしく、あまり公言はしていませんが…(笑)。
沖縄のラッパー、PIEC3 POPPO(ピースポッポー)とコラボした楽曲 「Ryuh」のビートも自分で作ったもの。まさか他のアーティストさんに楽曲提供するなんて夢にも思ってなかったんですが…(笑)。小さい頃から頭の中で曲を作るのは好きだったんですが、実際に音を鳴らして形にするのがとても苦手でした。でもいざ取り組むと、自分が好きな音がどんな音色なのか気づけたし、試行錯誤しながらですがその中でも成長している実感があります。
―より一歩踏み込んで音楽活動を再び始めた理由は、一体どのような心境の変化があったのでしょうか?
再び音楽をやりたいけど、なかなか踏み出すことができず、心の中で諦めかけていた時期が数年続いていたんです。だけど、このままだと後悔すると思って、まず自分でできることから少しづつ取り組んでみようと思い立って、ビートメイクしたり歌詞を書いたりするところから始めることにしました。すると、形になったのはすごく早かった(笑)。また、いざ踏み出してみると、“自分が音楽を通して表現したいこと”というのがはっきりと見えてきました。それは「多くの人に沖縄のことを伝えたい」ということ。沖縄民謡好きな血が、再び騒ぎ始めてきています(笑)。いろんな回り道をしたけど、小さい頃の自分の夢に戻ってきている感覚です。
―なるほど。MEIRIさんのSNSなどでの発言を見ると、「ウチナーンチュのアーティスト」としてスイッチが入ったと感じていました。歌詞はもちろん、衣装やアートワークに至るまで。その理由をぜひ教えてください。
ウチナーンチュってスピリチュアルな面を持っている人、多いと思うんです。ご先祖様とも距離が近いし、街のいたるところに拝所があったりと、生活に神様が根づいています。そういう私も小さい頃から、キジムナーや猫の精霊が見えていた経験があります…(笑)。そういったものが影響しているのか、ウチナーンチュのアーティストたちはスピリチュアルなメッセージを込めて曲を作っている人も多く、その芸術性はいつの時代も唯一無二。音楽という芸術を通して、私たちウチナーンチュが出来ることや伝えられることって、もっとたくさんあるんじゃないかと思ったんです。
私の持論なのですが、「沖縄は世界の写し鏡だ」と思っています。この島を取り巻く問題を解決できたら、それを参考にして世界中の問題を解決できるヒントになるんじゃないか。だからこそ、ウチナーンチュはもっと沖縄のことに目を向けるべきとも思っています。そうしたウチナーンチュが神様たちと関わり合ってきた精神や文化、プライド、気づき、また逆に音楽を通して、悩み苦しんでいるウチナーンチュに対して救いの光を与えられる存在になりたいという思いもあり、再び音楽活動を始めることにしました。
東京に出たけど思い描いたような活躍ができず、うまくいかずに沖縄に戻ってきたことを負い目に思っていたけど、今では私にしか表現できないことをやるために、「沖縄に戻るべくして戻ってきたんだ」と思えるようになりました。そう思うと、今まで後ろめたく思っていた気持ちが全部取れて、ルーツを見直して伝えられることを発信しようと思っています。
―歌詞内でもウチナーグチを使ったり、沖縄民謡のフレーズを引用したりと、MEIRIさんのウチナーンチュのアーティストとしての決意がいたるところから伺えます。
沖縄民謡にヒントを得て、いろんな遊び心を込めて曲作りをしています。昨年リリースした「R.E.D~like a ICHUBIGUA〜」は、民謡の「いちゅび小節」にヒントを得て作った曲です。「いちゅび」とは沖縄の方言でイチゴっていう意味なんですが、イチゴの他にも赤色に関連するものを並べてみようと思い、「てぃんさぐぬ花」「赤田首里殿内」という「ホウセンカの花」と「首里城」という、それぞれ赤が基になっている事柄を歌っている民謡も組み込んでみました。
曲の最後には「赤田首里殿内 黄金灯籠下ぎてぃ うりが明かがりば 弥勒迎け(首里城に黄金色の灯篭を持って、私たちが照らして弥勒神をお迎えしよう)」というフレーズを入れ、燃えてしまった首里城にまた明かりが灯るようにと、復興の意味も込めました。ライブ衣装も紅型を基調にしたもので、ずっと昔からストリートファッションに打掛を羽織りたいと思っていたので、この曲をリリースするタイミングで形にできました。「Ryuh」のMVでも沖縄の着物の帯を使っています。
キングスのハーフタイムショーでも、「見てくれた人たちが何かを感じてくれたらいいな」という思いだけで歌いました。テレビ放送も通して多くの人が見てくれたみたいで、それも嬉しかった。「”R.E.D~like a ICHUBIGUA~」をリリースしてからそういうご縁が広がっています。私の他にもウチナーンチュのアーティストとして伝えるべきことを歌っている人は増えているし、彼らもそういう任務を与えられているんじゃないかな、と思っています(笑)
―7月7日には、今年初の配信限定シングル「天女」がリリースされました。この曲に込めた思いをお聞かせください。
新曲のタイトルを「天女」にしたのは、実は当初深い意味はなく、
自分自身で作ったビートに対して、「天女」
「天女」を作り始めた時、
「この曲で私が歌いたいこと、
そんな時に日々、沖縄からたくさんの神々様へ、
思い切って、
汚れてしまった場所や感情、枯れてしまった人々の心に、
私の奏でる、音楽や言葉を通して、
―最後に今後の目標を教えてください。
目標は…もう一度、韓国であの時のスタッフさんたち全員と仕事がしたい!それとここ沖縄から多くの人に光を届けたい。この二つが目標です。過去への執着は全くなく、前を向くだけで、なんなら苦しかった過去も一緒に連れていけるような心の強さも兼ね備えたと思っています。経験に感謝し、沖縄から光を届けることができるアーティストになっていきますので、皆さん今後の私の活動をチェックして頂けたら嬉しいです。
【プロフィール】
沖縄出身のアーティスト/シンガーソングライターであるMEIRIは2015年、アーティストデビューを果たしダンス&ボーカルとしての道をひらく。温かみのあるチェストボイスとスモーキーな高音が持ち味。自身で作詞作曲を手がけており、キャッチーなメロディとシンプルで率直なリリックはメッセージ性があり、ポジティブでいることへの想いを自身へ向けた楽曲が多い。幼少期は沖縄の琉球民謡、古典音楽に影響を受け、高校時代はストリートダンスに出逢いヒップホップの文化に影響を受ける。沖縄特有のミックスカルチャーの中で育った彼女のフロウや、魂に刻まれた独特のセンスから生まれる音楽はまさに"チャンプルー"で唯一無二である。
Instagram:https://www.instagram.com/meiri_oki_0308/?hl=ja
聞き手・野添侑麻(のぞえ・ゆうま)
2019年琉球新報社入社。音楽とJリーグと別府温泉を愛する。18歳から県外でロックフェス企画制作を始め、今は沖縄にて音楽と関わる日々。大好きなカルチャーを作る人たちを発信できるきっかけになれるよう日々模索中。