蛇口をひねれば水が出る。多くの県民の暮らしを支えるのがダムだ。
そんなダムが近年、自然体験や文化財散策など、新たな行楽スポットになっているらしい。
秋晴れの中、各地の「てみた。班」記者は、ダムに出掛け、水がめ以外の“新たな顔”に迫ってみた。
カヌーで自然満喫
北部のダムでは、ダム湖を生かした自然体験「ダムツーリズム」が盛んだ。その中でもダムでカヌーってどんな感じ? たぶちゃん記者とさかこ記者、うっちーカメラマンが福地ダムで体験してみた。
~ 心地いい風を感じて ~
「ケーンケーン」。オオシマゼミの鳴き声が響く湖岸で、東村のつつじエコパークのカヌーガイドteraさんからこぎ方を習う。「2人乗りは後ろが前に合わせて」「水深は深い所で約70メートル。落ちないように」。遠足気分だった3人の顔に不安の色が漂った。
ダムの湖面は穏やかで緑色にきらめく。海と比べると波は格段に低いはずだが、強い風が吹くと、パドルをこぐ手が重くなる。左に行きたくても右に引っ張られる。「風に流されないように」とteraさん。3人ともふらふらしながら、何とかカヌーをこぎ進めた。
ダムには、日差しを遮るものがない。太陽が水面(みなも)に反射して耐えられないほど暑い。さかこ記者は時折、両手をダムに突っ込んで涼をとる。パドルをこいだ水しぶきと、吹き抜ける風が体を冷やしてくれた。
たぶちゃん記者はダム湖のへりの赤土が気になった。今年は雨が少なく、福地ダムの貯水率も例年に比べて低いという。福地ダムは東村以北のダムの水をため中南部に送る役割を担う。teraさんは「節水を心掛けて」と呼び掛けた。
teraさんの案内でこぐ手を止めると、あたりにはヒカゲヘゴやブロッコリーのようなイタジイが生い茂っていた。少しだけ日陰があって涼しい。雨が降って生まれた小さな滝の前に行くと、水のせせらぎと深い山の緑が体にしみた。聞こえるのは自然の音だけ。teraさんが一言。「言葉はいらないでしょう」
人間の生活のために自然を壊して開発されたダム。徐々に元の自然を取り戻し、自然や資源の大切さを伝える取り組みが始まっている。記者たちは久々の全身運動による筋肉痛に苦しみつつ、そう感じていた。
琉球王朝に時間旅行
遺跡や遺構好きにたまらないのが金武ダム。琉球王朝時代から現代まで時代をたどることができる。
首里王府と各地を結んだ宿道「国頭方東海道(くにがみほうとうかいどう)」の一部であるらせん状の石段が2006年、金武ダムの建設中に見つかった。現在は遺構として残されていて、当時の石の並びがよく分かる。長年土に埋まっていた宿道を一目見ると、150年以上昔の時代を味わえる。
昭和の時代を伝えるのが旧億首橋。1931年に開通したが、45年、米軍の侵攻を恐れた旧日本軍によって破壊された。コンクリートの破片がそのままで、破壊された当時の痛々しい姿のまま残されている。生活道路が奪われ、人々は川を泳いで北上していった。そんな戦争の現実を旧億首橋は見てきた。
金武ダムのてっぺんから眺めると、琉球王朝から明治に使われた宿道、大正時代の村道、昭和の旧億首橋、終戦直後、米軍が整備した軍用道路の旧国道329号と現在の国道329号の金武大橋。平成になって建設が始まった金武バイパスを一望することができる。石や道は時代を表す。時代を感じる金武ダムは、一見の価値あり、だ。
見えないけど…島の救世主
宮古島市には世界に名だたる地下ダムがある。名称の通りなら壮大な地下施設が建造されているイメージがあるが、実際はどうなのか。
宮古島の地下ダムは水を通しやすい琉球石灰岩の地層にコンクリートの壁を打ち込み、本来なら海へ流れ出る雨水をせき止める仕組みだ。琉球石灰岩は細かい穴がいくつも空いており、水を通しやすい。
ただ琉球石灰岩の下は水を通さない地層だ。琉球石灰岩にたまった雨水をポンプでくみ上げ、農業用地へ散布している。地下に大きな空洞があるわけではない。
古来よりかんがい施設がなく「水なし農業」を強いられていた宮古島市。1970年代から地下ダム構想が浮上し、77年度から工事が開始。世界で初めて大規模地下ダムを完成させた。
現在地下ダムは皆福と砂川、福里の3基が完成している。地下ダムのおかげで農業環境は劇的に改善し、宮古島市は県内随一の農業地域となった。また2023年の完成を目指して仲原と保良の地下ダム工事も進んでいる。
水底に沈んだふるさと
「倉敷集落」水底から姿現す-。1987年1月22日付の琉球新報朝刊社会面に、こんな見出しが踊った。瑞慶山ダム(沖縄市、倉敷ダムの前身)の水抜き工事の際、底から井戸や畜舎跡など、生活の痕跡を刻む旧集落の遺構が出現したという記事。ダムになる前、どのような景色が広がり、なぜ水底へ沈んでいったのか。集落の記憶をたどる。
倉敷地区は1894年ごろ、廃藩置県後に困窮した首里の旧士族が入植した屋取(ヤードゥイ)集落。原野の開墾は困難を極めたが、1942年ごろには行政字として独立した。しかし、沖縄戦で米軍は一帯を弾薬庫として接収。61年には米軍が利水専用として瑞慶山ダムを建設し、集落は水底に消えた。
軍用地の返還後、96年に完成した倉敷ダムの事務所に旧集落の模型がある。屋号の数は46。緑豊かな村には、わらぶきの家が立ち、きれいに整地された畑が広がる。出身者の故郷をしのぶ思いは強く、ダムには「倉敷」の名が残された。
開拓の夢、沖縄戦の記憶、望郷の思いが眠る倉敷ダムでは今、多様な生き物がすみ、水辺に子どもたちの快活な声が響く。歴史に思いをはせ、ダムを散策すれば、一味違う楽しみが感じられるかもしれない。
ダムカード、ゲットだぜ!
全国604カ所のダムには、ダムに関する情報を記載した「ダムカード」がある。県内は本島と離島含めて23ダムのカードが配布されている。そこに行かないともらえない“特別感”がマニア心をくすぐる。
ダムについて知ってもらおうと、国交省が2007年から始めた。ダムの写真とダムの型式、技術などの情報が対戦カード風に掲載されている。県や市町村管理ダムにも広がっている。
管理支所などで名前と所在市町村を書き込めば、もらえる。記者が記入すると、名簿には県外在住者の名が並んでいた。全国的にも珍しい地下ダムや、伊平屋や座間味など離島に行かないともらえないダムカードがマニアの間で“激レアカード”と人気のようだ。
(2017年10月15日 琉球新報掲載)