おまわりさん人形の記事を読んで興味を持ちました。手作業で一体一体、心を込めて作られたんだろうなと勝手にあれこれ想像しています。制作者はいったいどんな人だったのでしょうか?
(那覇市 ゆうすけ)
制作者の中村信彦さんは、交通安全を願いながら1体ずつ時間をかけて作っていたそうです。始まりは1969年、120体以上あったおまわりさん人形は、いまではだいぶ数は減ったものの2021年のいまも現存し、受け継がれています。
手先が器用な祖父
実は、おまわりさん人形の記事(昨年6月18日付、今年6月17日付)を読んだ中村信彦さんのお孫さんから、調査班に連絡がありました! 調査員はぜひ、お会いしたいとお孫さんの中村信博さん(70)と城間敬子さんを訪ねました。信博さんは信彦さんの5男・信治さんの長男で、敬子さんは長女だそうです。
「親が共働きのため、よく祖父母の家に預けられていました」という信博さんと敬子さん。
「家の敷地内で祖母と養鶏をしながら、祖父はいろいろなものを作っていました。庭が広かったですからね」と話します。鶏のケージも信彦さんの手作りで、とにかく手先が器用だったといい、二宮金次郎や西郷隆盛などの像も作っていました。おまわりさん人形を作り始めたのは72歳のころだったそう。
「交通安全に協力したということで、警察署や交通安全協会から表彰されたときには、私も一緒に行ったのを覚えています。そのついでに、おまわりさん人形のペンキも塗り直しに行きました」と信博さんは振り返ります。また、人形作りの手伝いもしたそうで「資材の調達をしたり、セメントに砂などを混合してコンクリートを作ったりもしました」とのこと。
「最初は人形を寝かせた状態で前面を形作り、乾いたらひっくり返して、今度は背中側を作ります。中には鉄筋を入れて、乾いたら立てて形を整えます。それからペンキを塗って出来上がり。立てるときは重くて一人じゃできないので、祖父に呼ばれて私も一緒に柱にくくりつける作業をしました。結構、重かったです。とにかく祖父はコツコツコツコツやっていましたね。1体作るのに1カ月くらいはかかっていたんじゃないかな?」と話します。
長身で大きな手
信彦さんは戦前、荷馬車で運搬業もしており、戦時中は馬車ごと徴用されました。軍の物資や、ときには病死した兵隊の死体を運んだことも。仕事柄、行く先々で情報を得て戦況もある程度把握し、戦禍を生き延びてきたのでは? と信博さんは話します。
当時としては長身で170センチはあったという信彦さん。手は大きく力もあったといい、セメントの人形を作るのに役立ったのではないでしょうか。
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今回の調査では、制作者・信彦さんの人となりをうかがい知ることができ、おまわりさん人形がより身近に感じられるようになりました。敬子さんは、お孫さんたちとおまわりさん人形の写真を撮りに行こうと計画を立てているそうですよ。
(2021年9月9日 週刊レキオ掲載)