72年前の1944年8月22日、戦火が迫る沖縄から本土に疎開する学童らを乗せた船「対馬丸」が鹿児島県悪石島付近で、米軍の魚雷攻撃を受け沈没した。
学校単位で疎開した学童783人、家族で疎開した一般疎開者626人を含む1484人(2015年8月22日現在、氏名判明分)が犠牲になった。
これだけの子どもが犠牲になった悲劇を伝え、平和を作る取り組みが沖縄県那覇市の対馬丸記念館で始まっている。
資料館に響く歌声
海水浴をする人たちでにぎわう那覇市若狭の波の上ビーチ近くにある「対馬丸記念館」。
ここは米軍が沖縄に上陸する7カ月前の1944年8月22日、本土に疎開する学童らを乗せた「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した事件について伝える資料館だ。
「平和資料館」と言えば、静かな厳粛な場所というイメージがあるが、対馬丸記念館は少し違う。
「もしもこのずじょうに/おとされたものが/ミサイルではなく~♪」。
毎週土曜日の朝、子どもたちの歌声が響く。「みんなと歌を歌うの、楽しいよ」「歌うと気持ちいいよ」。照屋優姫(ゆうき)さん(11)=天妃小5年=と玉城碧乃(あおの)さん(9)=同小4年=は笑顔を見せた。
主に那覇市内の小学生による「つしま丸児童合唱団」が記念館を拠点に活動しているのだ。
2人の姉への思い
「平和資料館で子どもが騒いでいるのはどうか?という声もあった。でもここは子どもの平和資料館。常に子どもの声が聞こえるようにしたいのよ」。
記念館を運営する対馬丸記念会の外間邦子常務理事(77)は話す。
外間さんは対馬丸で2人の姉を亡くした。
記念館の一番最初に展示されている小さなランドセルの持ち主「みっちゃん」「えっちゃん」が外間さんの姉だ。
「みっちゃん」こと美津子さんは当時10歳、「えっちゃん」こと悦子さんは8歳だった。
ある日、みっちゃんは学校から帰ってくると「悦子と一緒に疎開すると先生に言ったよ」と元気な声で得意げに話したという。
「お国のために」という思いは一切なく、旅行にでも行く気持ちで2人は船に乗った。
44年8月22日、午後10時12分頃、対馬丸は鹿児島県悪石島近くで魚雷攻撃を受け、同23分頃、沈没。
2人は帰ってこなかったが、対馬丸とは別の船で運ばれたランドセルだけが、両親の元へ帰ってきた。
「ここはみっちゃん、えっちゃんが帰ってきたかった学びや。対馬丸の子どもたちが未来を取り戻す場所なのよ」。
外間さんは、10歳と8歳のままの姉たちを含む、対馬丸の子どもたちに思いを寄せる。
平和の担い手を育てる
沈んだ対馬丸の船体は97年12月に発見された。
遺族は引き揚げを求めたが、船が老朽化していることなどから国は不可能と判断。
「子どもたちを海の底にそのままにしておくわけにはいかない」という遺族の思いをくむ形で、国の慰謝事業として記念館建設が進められ、2004年8月に開館した。
記念館の使命は事件について伝えるだけではない。平和の担い手づくりも大事な使命だ。
歌や英語遊びを通じて、豊かな心をはぐくもうと2012年に結成された「つしま丸児童合唱団」はその一環といえる。
相手に興味を持つこと
英語遊びの時間。講師の春山幸子(ゆきこ)さん(56)が数人の子の名前を読み上げ、英語で問い掛けた。「この子たちの共通点は何?」
互いのことを見回す子どもたち。「分かった! 名前に『ゆ』が付いている!」。1人の子が答えると、他の子も「そっか~」と納得の表情。
実はこの遊びの狙いは他の人に興味を持つこと。共通点を見つけるには相手をよく見ないといけない。「英語を教えているというより、英語を通して交流やふれあいを教えている」と春山さんは話す。
もう1人の講師、平良直美さん(56)も「コミュニケーション能力は人と人が手と手を取り合うためにもとても大切」と意義を語る。
対馬丸記念館と共に育つ子どもたち
このほかにも子どもたちは、カードを使ったゲームや英語の歌など体を使って遊びながら英語の音に触れていた。学校も年齢も異なる子たちが仲良く輪になるのがほほえましい。
英語の次は合唱の練習。合唱団は毎年8月22日に行われる「対馬丸慰霊祭」に参加し、平和を誓う歌を歌っている。慰霊祭を前に練習は一段と熱気を帯びている。
今年の慰霊祭では、リーダーの花岡光君(12)=垣花小6年=が体験を基に書いた作文を読み上げる。2年生から合唱団に所属する花岡君。
「1人1人が思いやりを持ち、相手に対して理解と許し合える心を持ち、変わっていけば、みんなが平和の心を育てていけるかもしれない」とつづった。
対馬丸の子との約束
「対馬丸の子どもたちと今の子どもたちが一緒に平和を作る場所」。
外間さんは対馬丸記念館をこう表現する。
対馬丸の子どもたちはたくさんの夢、未来を奪われた。そして遺骨さえも親元に帰れなかった子も多い。
対馬丸には学童疎開の子どもたちのほか、船員、軍人、一般疎開者も乗っていて、合計で1400人余りが亡くなった。
乗船者で最も犠牲者が多かったのが学童で、生存率はわずか7%。これに対して船員の生存率は72%。
有事の時には弱者から真っ先に犠牲になることを証明する数字だ。
外間さんは「戦争とは何か? 平和とは何か? 自分たちはどんな未来を作りたいのか? ここが基盤にあって成長してくれれば」と望む。
合唱団の子どもたちが練習している部屋の隣に「今を生きているきみへ」というタイトルが付けられた、対馬丸の子どもたちから今の子どもに向けたメッセージが展示されている。
その中にこんな一節がある。
「今でもまだ、世界では戦争で多くの子たちが悲しい思いをしているのかな。
想像してみて。
今、ぼくらに約束してほしいんだ。きみが、平和な地球をつくるって」
国内でも珍しい、子どもに特化した平和資料館は、子どもたちの未来のために存在している。
― この記事を書いた人 ―
玉城江梨子(たまき・えりこ)
琉球新報style編集部。今年3月までは編集局社会部の記者(=紙の新聞の記者)として医療・福祉や沖縄戦などをテーマに取材。