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ないものを想う気持ち 仲秋の名月から感じた沖縄 河瀬直美エッセー<とうとがなし>(13)


ないものを想う気持ち 仲秋の名月から感じた沖縄 河瀬直美エッセー<とうとがなし>(13) 歌三線を披露する仲村渠達也さん=9月30日、京都市の源鳳院(源鳳院提供)
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 今年の仲秋の名月は新暦の9月29日。私は奈良三笠山に登ってくるその月を飛火野(とびひの)という場所で見ていた。


 「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」。これは安倍仲麻呂という奈良時代の遣唐使留学生が19歳の時に留学し、36歳で帰国を申し出るが優秀すぎて許されず、55歳になってやっと帰国が叶(かな)いその送別の宴で詠んだ歌である。大和に生まれた仲麻呂が36年ぶりに故郷に帰ることを心待ちにして、留学先である明州、現在の中国浙江省寧波の空に見えた月が、故郷の奈良は三笠山に出ている月と同じなんだよな、と懐かしく愛(いと)おしく想う歌だ。

 沖縄にも同じような、こちらは遠くに暮らす大切な人を想って詠んだ歌がある。「渡海や隔めても照る月や一つあまも眺めよら今宵の空や」。海を隔てても照り輝く月は一つです。アナタも眺めているのでしょうか今宵(こよい)の空を。島国独特の感覚。海の向こうの誰かに想いを馳(は)せること。その切なさと愛おしさは、1300年前の人と変わりない。


 翌30日は週末の来訪していただきやすい土曜日で、京都の山科家ゆかりのご邸宅「源鳳院」のお座敷にて仲村渠達也さんに歌三線を披露いただいた。あいにくこの日は曇り空。月を愛(め)でる歌「瓦屋節(からやーぶし)」の歌声と三線の音色は秋虫の声と相まって、集った20名の観客が酔いしれていた。私はその歌の解釈を混ぜながら今日この日の天候を朗読した。

 「今日は少し恥ずかしがってお顔を出されていないお月様。けれど、雲の向こうには煌々(こうこう)と光ってその姿はある。ないものを想う気持ちは想像力という人間に備わった素敵な感覚を心に遊ばせることができます」

 雨もまだ待ってくれているようだったので、皆さんと少し散歩をして近くのお寺、浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺を訪問した。その方丈前庭園にて達也さんが「赤田風節(あかたふうぶし)」を披露してくださった。月の光もない照明もない達也さんの表情も見えない空間である。けれど秋虫の声が静かに響く庭で聞こえてくる琉球からの旋律と歌声は、私の心にむしろ深く刻まれた。

 「赤田門や閉まるとも恋しみもの門や閉まて呉るな」あかたじょや(5音)つぃまるとぅん(5音)くいしみむぬじょや(8音)つぃまてぃくぃるな(6音)
 この琉歌の形式は大和の5・5音という奇数と琉球の8・6音という偶数を折衷した仲風(なかふー)というものだという。なかなか粋な選曲だ。

 「京都にて沖縄の文化が融合する。そのご縁に感謝してご披露させていただきました」という達也さんのご挨拶(あいさつ)。首里城の赤田門は閉めてもいいけれど、愛しい人がやってくる裏の門は閉めないでね、という琉歌の意。今年はお隠れになっている仲秋の月はまた来年出逢うためのものなのかもしれない。月の見えない雲の向こうに沖縄を深く感じた夜だった。 

(映画作家)