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能動的サイバー防御 国が自由に国民監視 杜撰で秘密体質、恣意的<山田健太のメディア時評>


能動的サイバー防御 国が自由に国民監視 杜撰で秘密体質、恣意的<山田健太のメディア時評> 防衛省(資料写真)
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 有事という言葉で語られてきた他国との武力衝突が、明確に「戦争」という用語に置き換わり、国家安全保障という名の戦うための国づくりが進んでいる。沖縄戦の最中(さなか)から一貫して続く米軍による基地の自由利用はますます固定化しているし、これに加え自衛隊の南西配備と称される人的物的拡充が止まらない。当然、日米間の軍事連携はいっそうわかりやすいかたちで示され、その結果、島全体が他国への攻撃拠点であり攻撃対象となりつつある。

 こうしたわかりやすい武力の増強を支える、周辺の制度整備も急ピッチで進む。しかも小さく生んで大きく育てるという言い方が文字通りあてはまるかたちで、政令委任等による「だまし討ち」的運用によって基地運用のしやすい社会環境が作られてきた。これは裏を返せば、市民の自由や権利が規制され続けているということだ。

画餅の第三者委

 その象徴例は当欄でも指摘をした、21年制定の土地利用規制法や16年制定のドローン規制法だ。土地利用を制限する地域指定には、法が定めた審議会での了承が必要で、これが歯止めになるはずだが、当該指定を受ける自治体として沖縄県が疑義を呈しても、議論ではスルーされ、政府案が変更されたことは議事録で確認した限り過去に一度もない。

 第三者委員会がまったく機能していない一例で、昨今の法律でよく独立性を持った機関を作ることで歯止めとなるという論法が使われるが(直近では政治資金規正法の運用監視でも、法改正の条件として第三者委員会方式が採用されている)、それが画餅であることは明白だ。

 そしてさらに政府では、「能動的サイバー防御(アクティブ・サイバー・ディフェンス=ACD)」のための新法制定に向け具体的な検討が進んでいる。国民生活に不可欠なインフラを守るためには、憲法で明記されている通信の秘密を制限してでも、通信事業者経由で収集した情報をもとに監視体制を強化することが必要だとの認識だ。9月にも取りまとめを予定している内閣官房に設置された「サイバー安全保障分野での対応能力の向上に向けた有識者会議」には、憲法学者や前・日本新聞協会会長などのメンバーが揃う。そこでは、公共の福祉のためには通信の秘密が必要かつ合理的な制限を受けることに大きな異論は出ていない模様だ。

広範に情報収集

 しかし、サイバー攻撃対処のための情報収集は、現在極めて限定的に実施されている通信傍受とは規模も深度も別次元の広範なものになると想定されている。さらに攻撃者を突きとめるには、端末のパソコンなどでの操作に関する記録も含め、データの通信や管理の要となるサーバーを持つ事業者から、膨大な情報の提供を受けることが必要だ。

 おそらくここでも、通信の秘密に配慮する旨が規定されるなど、法では人権バランスをとる形式を踏むものの、実際の運用は通信事業者に協力という名の提出命令義務を課し、広範な監視活動が実行されることになると危惧される。

 なぜそれほどまでに憂える必要があるかは、2000年代に入って続々と成立した「配慮」を謳(うた)う法律群を並べてみるとわかる。

 03年 武力攻撃事態対処法3条(5)
 04年 国民保護法5条(1)
 13年 特定秘密の保護に関する法律22条
 17年 改正組織的犯罪処罰法=共謀罪法6条の2
 24年 経済情報秘密保護法22条

 しかもこれらの共通点は、すべて国家安全保障を目的に、表現の自由(取材・報道の自由)を制約するものであるという点だ。

「原則」と「等」

 政府はすでに内閣法制局チェックも終えていると報じられており、そこで確認された収集条件として、(1)目的の正当性、(2)行為の必然性(その行為以外に手段がないこと)、(3)手段の相当性(必要最小限にとどめること)のほか、(4)内容の限定性(メールの中身や件名といったプライバシーにはかかわらない付随情報=メタデータにとどめること)などがあげられているという。

 これらは表現規制の時の一般ルールとほぼ同じで、まさに総論としての原則を述べたに過ぎないものだ。実際、すでにこれら条件は「原則」であるという声が聞こえるほか、「等」で拡張解釈の幅を担保することが想定されており、十分な歯止めになるような条件とは言い難い。

 しかも審議会は議事要旨のみで(政府は発言者名を伏せた議事録との認識)、相変わらず重要な会議ほど正確な記録を残さない体質が発揮されており、自衛隊にみられるように国家機密の管理も杜撰(ずさん)なうえに、こうした秘密体質の国が恣意的な判断で国民監視が自由にできる法制度を作ることの危険は否定しえない。

 ちょうどいま、総務省では偽・誤情報対策が急ピッチで話し合われており、ネット空間の「情報流通の健全化」のための制度構築を目指して、官製ファクトチェックシステムなどが構想されている。日常の生活が不安になったり、平穏や安全を求めた場合、どうしても国にその解決を求めてしまうし、その結果より強力な「規制」を受け入れがちだ。ネット空間の怪しい動きを平時から常時監視していれば犯罪を未然に防止できる確率は上がるに違いない。しかしそれは、だれもが国家に通信内容を監視されることを意味する。

 政府内の検討では、通信内容の提供は受けないとしているが、あくまでスタート時点の話であって、通信傍受法(盗聴法)も当初の運用条件が大きく緩和され運用されているのが現実だ。そもそも2000年代に入って続々制定される表現の自由規制立法の流れをさらに加速させることが、日本社会の基盤を大きく変えてしまいかねない。公権力に委ねるとは、市民的自由を手放すと同義であることを改めて確認し、憲法原則をいかに実効的に守るのかに心を砕くことが求められている。

(専修大学教授・言論法)


 本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。