<金口木舌>「ハイスクール」から70年


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 なぜだろう。与那原町にあるのに知念高校と言い、大宜味村にあるのに辺土名高校と言うのは。実は沖縄の戦後史と深い関わりがある

▼沖縄戦終結の1945年9月、米軍は本島内にある12の住民収容所を「市」と命名した。県教委発行「沖縄の戦後教育史」によると、各市で初等学校が開校し、高等教育を求める声も高まっていった
▼45年7月、戦後初の高校となる石川学園が石川収容所で開校する。次いで8月に大浦崎高校(後に田井等高校=現名護高に統合)、10月にコザ高、11月に久志高(宜野座高に統合)、前原高、知念高、12月に辺土名高(一時期、田井等高分校)と、この年は市名に由来する7校が誕生した
▼知念高は3回移転した末、与那原に落ち着いた。大宜味に移転した辺土名高は校名変更も考えたが、沖縄民政府は収容地区名以外の校名は認めなかったという(同校創立40周年記念誌)
▼12の市は1年足らずで消滅し、高校名として残った。当時の高校はハイスクールと呼ばれ、4年制。小学卒から兵隊帰りの20代まで年齢もばらばらだった。学ぶ意欲は強かった
▼あすの石川高を皮切りに45年に開校した5校が70周年式典を開く。食料も事欠く時代、先人たちは焦土の古里を復興させようと、教育の必要性を訴え続けた。その熱い思いを受け継ぎ、校名に刻まれた歴史を振り返る機会にもしてほしい。