<金口木舌>湛山の「理想と現実」


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 石橋湛山が首相となった1956年末、元県知事の稲嶺恵一さんは慶応大の学生だった。在任わずか2カ月余だが「非常に印象に残っている」という。本紙は先日、湛山の名を冠した賞を受けた。その報告会で語ってくれた

▼「小日本主義」を唱(とな)え、植民地放棄を主張した言論人というだけではない。「湛山は政治家、エコノミスト、ジャーナリストであった。では何者か。現実を直視したことに集約される」が稲嶺さんの湛山観だ
▼戦時中は軍部に抗(あらが)い、戦後もGHQに抵抗して公職を追われた湛山は、冷戦や朝鮮戦争の勃発を背景に再軍備を論じた。「理想を求めながらも現実を直視したジャーナリストの生き方は参考にすべきだ」と元知事は力説した
▼企業グループを率いる経済人として沖縄社会を見詰め「解釈より解決を」と訴えて知事になった稲嶺さんらしい言である。在職中、理想と現実の狭間(はざま)で頭を痛めた経験を踏まえてのことだろう
▼歴代の知事の苦難もここにあった。沖縄現代史の一断面でもある。国益を理由に政府は現実的な対応を沖縄に迫る。沖縄側は安易な現実への屈服を拒みながら、歩むべき道を模索した
▼湛山は現実を説きつつ、晩年まで「日中米ソ平和同盟」の理想を追求した。「湛山の時代」を目撃した稲嶺さんは「大局を見据え、理想と現実の調和を図るべきだ」と注文したのだと受け止めたい。